誰も泣かない・前編    月桜可南子
          act.1
 すでに午前二時を回るというのに、男の攻めは一向に終わる気配はない。煌々と明かりの灯る室内で、文弥ふみやは両脚をM字型に大きく開かされたまま恥ずかしい場所を容赦なく男の目に晒されていた。
「俺のモノをうまそうに飲み込んでるな」
 男が嬉しそうに結合部を指先で辿る。文弥は羞恥のあまり両手で顔を覆った。今、自分がどんな状態なのか考えただけでも死にそうなのに、男は大層、ご満悦だ。
「顔を見せろ」
 男の手が強引に文弥の手を外す。羞恥に頬を染める文弥の初々しさに、男のイチモツがさらに硬さを増した。
「お願い…です……後から…して下さい」
 文弥は、自分の顔を見られずに交われる背後位が好きだった。なにより、男の醜い姿を見なくて済む。
 男は、文弥より35歳も年上で、頭髪もかなり薄かった。身長など文弥より5センチも低い上に、腹の周りにはでっぷりと肉が付いている。お世辞にもハンサムとは言い難い容姿だ。
「そうだな、おまえの綺麗な牡丹の花を愛でながらイクのも悪くない」
 男は好色そうな笑いを浮かべると、小柄な身体からは想像もつかない怪力で文弥の細い身体をひっくり返した。雪のように白い背中に、大輪の紅い牡丹が乱れ咲いている。男が懇意にしている彫物師の力作だ。その花に丹念に舌を這わせると、男は乱暴に文弥の中へと打ち込み始めた。肉と肉のぶつかる乾いた音が室内に響く。
「ちゃんと腰を使え! 俺の動きに合わせるんだ!」
 苛ついた口調で叱責され、ピシャリと尻を叩かれる。
「はい……旦那様」
 文弥はもう、男の欲望を受け入れる痛みに泣き叫ぶ子供ではない。男が突き上げる時は息を吐いて身体から力を抜き、男が最奥に達した瞬間、下腹に力を入れて締め付ける。
「どうだ、文弥……感じるかっ?」
「はい……気持ち…いいです」
 延々と苛まれて、もはや焼かれるような痛みしか感じないが、文弥は感じているフリをする。男を悦ばせ満足させないことには終わりは来ないと知っているからだ。
 何を思ったのか激しい抽送を繰り返していた男が、ふと動きを止めた。ゆっくりと全体重をかけて文弥の上にのしかかってくる。深々と串刺しにされたまま、文弥は男に押しつぶされて息ができなくなった。
 窒息しそうになり、必死に藻掻いてなんとか顔と右肩だけ男の下から這い出した。何が起こったのか理解できないまま文弥が男を見ると、男は両目をカッと見開らき、酸素を求めるように大きく口を開いて……絶命していた。
 恐怖に駆られた文弥の口をついて出たのは、隣室に控えている男の部下の名前だった。
「……せ、瀬川さんっ、瀬川さん、助けて!!」
 それは、文弥が恋い焦がれるあまり、普段は決して口にすることのできない名だった。


 遠くから鹿威ししおどしの鳴る音が聞こえる。二百坪もある見事な日本庭園はちょうどツツジの真っ盛りだった。
 文弥がここに来るのは今回で二度目だ。一度目は、男の妻・綾子に顔見せをするために来た。そして今日は、男の息子・藤井隆治たかはるに呼ばれて来た。
 この屋敷は男の本宅……つまり藤井組組長・藤井泰治やすはるの屋敷だった。
 藤井組は広域暴力団の末端組織の一つだが、東北では一、二を争う規模の組織だ。泰治はその三代目の組長で、ワンマンだが度胸の据わった男として知られ、その醜い容姿ゆえか美しいものが大好きだった。
 銀座の売れっ子ホステスだった女・綾子を口説き落として妻にしたのは有名な話だ。その男が、息子より若い、それも男の愛人のベッドで腹上死したのはとんでもないスキャンダルだった。むろん、関係者には箝口令かんこうれいが敷かれたが、スキャンダルはどこからともなく漏れるもので、四十九日の法要では出席者達に陰で面白おかしく語られていた。
 文弥は、男の葬儀に出席することも許されず、マンションに監禁状態だった。それが急に今日になって呼び出され、瀬川に伴われて本宅に連れてこられた。
 十二畳ほどの座敷で、初めて対面した男の息子・隆治は、今年二十五歳。面立ちこそ父親に似ていなかったが、ふてぶてしさはそっくりだった。
「やっと会えたな」
 そう言って席についた隆治は、値踏みするように父親の愛人を見た。
 明らかに白人の血が混じっているとわかる白い肌と色素の薄い髪。骨細で華奢な身体はとても二十歳になるとは思えない。亡き父が何よりも愛でたのは、西洋人形のように繊細な顔立ちだったという。
「長い間、父に仕えてくれてご苦労だった」
 僅かな沈黙の後、隆治は静かに労いを口にした。文弥は何と応えてよいのかわからず途方に暮れて目を伏せた。
「今回のことでは、母が酷く落ち込んでしまってね。君にはこの街を出てもらいたい。それなりの金も用意した」
「……わかりました」
 文弥には街を出ても、行く当てなどない。唯一の肉親である母親は、十五歳の文弥を売って、ヒモ男と蒸発したのだ。以来、ずっと藤井泰治の庇護を受けて生きてきた。
 しかし、文弥は嫌だとは言えなかった。愛人として最悪の形で、男の妻を傷つけたのだ。どれほどなじられようと文句は言えない立場だった。



          act.2
 文弥は、組長が通って来ていた名取市繁華街のマンションから、大学近くの仙台市青葉区にあるワンルームマンションに転居した。すべては瀬川の手配により、速やかに行われた。
「少し交通の便は悪いが、日当たりはいい部屋だ」
 荷物が定位置に納められ、業者が帰った後、ぐるりと室内を見回した瀬川は、そう言って文弥を振り返った。四十代に入って渋味を増した美貌は、弁護士という職業に相応しく知的でクールだ。
「家賃や光熱費は通帳から引き落としにしておいた。大学卒業までバイトをすれば小遣いにも困らないだろう。藤井家からもらった手切金は、ちゃんと学費に回すんだぞ」
 わざと口うるさいことを言いながら、文弥の肩を叩く。
「ひとりでも頑張れるな?」
 切り捨てるように問われて、文弥はやるせなかった。社交辞令でいいから「たまには遊びに来い」と言って欲しと思う。
 しかし、瀬川は実に理性的で頭の良い男だった。文弥を引き取って藤井家との友好関係を壊すのは得策ではないし、セックスは物わかりが良く、大きくて柔らかい胸を持つ女とするものだと考えていた。それ故、彼にすれば文弥は厄介者以外の何者でもなかった。
 透明な瞳で自分を見つめているだけの文弥に、まるで子猫を捨てるような良心の呵責を感じて、瀬川は「大丈夫だな?」と念を押した。
「はい……」
 蚊の鳴くような小さな声だったが文弥が肯いて見せたので、瀬川は満足し、「元気で」という一言を残して部屋を出た。文弥には、大学に通い年相応の青春を謳歌して欲しいと思う。自分のような世俗にまみれた薄汚い生き方は似合わない。平凡で穏やかな人生こそ文弥に相応しい。そのためにも、二度と会わない方がいいのだ。


 取り残された夕暮れの中、文弥は真新しいベッドに腰掛けた。愛人だった過去を引きずりたくなくて、ベッドだけは新しいものをと瀬川に頼んだのだ。文弥は、パトロンを失った心細さより、瀬川に会えなくなるという哀しみに打ちのめされていた。
 外では雨が降り出したらしい。しのつく雨音を聞きながら、文弥はひとり、恋しい男の事を想った。
 美しいものに目のない藤井組長が側に置くだけあって、瀬川は本当に美丈夫だった。文弥が組長から寝物語に聞いた話によると、瀬川が大学一回生の時、父親の会社が倒産して、父親は自殺、母親は心労で入院した。瀬川は母親の入院費や学費を稼ぐため、自分から組長に身体を売った。その関係は、瀬川が司法試験に合格した二十三歳まで続いたという。
 そして瀬川は、組の顧問弁護士を務めるのを条件に、キッパリ愛人関係を終わらせたのだった。周囲の者がそれを黙って受け入れたのは、瀬川の毅然とした態度と他人に媚びない凛とした美貌のためだ。以来、二人の関係は『共犯者』という名の友交関係に変わった。
 その話を聞いて以来、文弥は自分と同じ境遇に身を置きながら、自らの力で這い上がった瀬川に強い憧れを抱くようになった。
 組長は、瀬川を信頼していたので、文弥を囲っていたマンションにも自由に出入りさせていた。瀬川の方は、組長の独占欲の強さを知っているだけに、文弥と用心深く距離を置いていた。会話はいつも必要最低限。挨拶と用件だけを伝える短いものだ。それでも文弥は幸せだった。ただ、見ているだけで……。
 育ちの良さを感じさせる優雅な雰囲気と均整の取れた長身、ゆったりとした甘いバリトンは、聞く者をうっとりとさせた。クールな美貌は、いつもポーカーフェイスで何を考えているのか決して相手に悟らせない。それでも何かの拍子にぽろりと見せる優しさに、文弥は縋る思いで恋をした。


 いつの間にかウトウト眠ってしまったらしい。文弥が携帯電話の鳴る音に目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。手探りで明かりのスイッチを入れ、慌てて携帯を取る。液晶画面に表示されていたのは同じゼミに所属する三上早紀の名前だった。
 早紀は物怖じしない明るい性格で、文弥にとって友人と呼べるたった一人の相手だった。文弥がやくざの愛人だとバレたとき、友達だと思っていた者達が皆、蜘蛛の子を散らすように逃げていったが、早紀だけは違った。自分を気にかけてくれる存在がいる……それは文弥にとって大きな心の支えだった。
 藤井組長が死んで以来、一度も大学に行っていなかったから、心配してかけてくれたらしい。大学の近くに引っ越したことを報告すると、早紀は電話を切って三十分ほどでやって来た。
「もう、自由の身だね」
 文弥の顔を見るなりそう言って笑った。文弥もつられて微笑んだ。
 すでに夜の九時を回っていたが、早紀が渋る店主を拝み倒して蕎麦の出前をしてもらい、ふたりで引越祝いをした。それから他愛のない教授の噂話や研究課題の材料集めなどを話し込み、瞬く間に深夜になってしまった。
「今夜……泊まっても…いい?」
「いいよ。まだ来客用の布団がないから、僕のベッドを使って」
 無邪気に応えた文弥が、「泊まる」という言葉の真意に気づいていないと悟って、早紀は盛大な溜息を零した。
「エッチしよってことだよ。友達から恋人に格上げして欲しいの」
 文弥は絶句して固まった。早紀は友達で、それ以上でもそれ以下でもない。セックスの対象として考えたことなど、ただの一度もなかった。



          act.3
「恋人……?」
 文弥は唖然として早紀を見つめた。早紀の一重だが大きくて澄んだ瞳が、驚くほど真剣に見つめ返してくる。笑うとえくぼのできるふくよかな頬は、緊張のためかいくぶん引きつっている。
「小川くんはもう自由の身になったから、恋人を作ったって問題ないでしょう? 四回生の先輩とかゼミの女子とか、みんなが小川くんを狙ってるから、出遅れないうちに立候補したいの。あたしのこと、嫌い?」
 早紀は、狡い訊き方だと思いながらも文弥に抱きついた。
「まさか、嫌いなわけないじゃないか!」
 予想通り、文弥は即座に否定して早紀の腕を振り解こうとはしない。それをいいことに早紀は、文弥にキスをした。
 柔らかな唇の感触と微かな化粧品の香りに、文弥の身体は猛烈な拒絶反応を示した。かつて藤井の命令で、中年の女とセックスしたときの嫌悪感が蘇り、文弥は無意識のうちに早紀を突き飛ばしてしまった。
「やっぱり……小川くんは女がダメなんだ」
 早紀が、失望も顕わに呟いた。
「…………」
 ショックのあまり文弥は言葉を失った。早紀は気まずそうに目を逸らすと立ち上がった。
「ごめんね、無理言って。あたし、帰るね。また学校で会おう」
 早紀が逃げるように帰った後、文弥は号泣した。早紀が好きだった。友達として好きだった。でももう友達には戻れない。恋人として早紀を好きになれたら、どんなに良かっただろう。
 しかし、文弥にとってそれは不可能だった。文弥の心には既に瀬川が住んでいたから。瀬川を想いながら、早紀を抱くような惨めで愚かな真似はしたくない。たとえ、早紀を失うことになっても……。
 文弥は、世界中から見捨てられ、大切なものすべてが無くなってしまった気がした。


 文弥が初めて瀬川に会ったのは、中学二年の時だ。一人息子であるにも関わらず、子供に無関心な母親が、珍しく猫なで声で文弥を呼んだ。そして朗らかに紹介したのが、「お世話になっている弁護士さん」という瀬川だった。
 文弥は、瀬川の車に乗せられ郊外のリゾートホテルに連れて行かれた。そこで会社社長だという藤井泰治に引き合わされ、レストランで食事をした。
 おそらく食事に何か薬が入れられていたのだろう、すぐに文弥は座っていられないほどの倦怠感を覚えた。横になって休むようにと部屋へ連れ込まれ、そこで藤井に犯された。母親は、ヒモ男の作った借金の利息として、息子の身体を差し出したのだ。
 恐怖と痛みに泣き叫ぶ文弥に手を焼いて、藤井は瀬川を寝室に招き入れた。瀬川は、自慰すらしたことのない幼い文弥の身体を導き、快感と男を受け入れる術を教えた。
 瀬川の口づけを受けながら、藤井に貫かれた初体験を、文弥は今でも鮮明に思い出せる。
 それから月に一度、藤井と食事をしてホテルでセックスをするようになった。藤井が、文弥との性交渉に瀬川の手を借りたのは初めの数回だけで、若い身体はすぐに従順に男を受け入れることを覚えた。
 母親は、普段はヒモ男に夢中で文弥の存在など忘れているくせに、藤井の相手をしてアパートに帰って来ると、とてつもなく優しかった。文弥は、母親に優しくしてもらいたい一心で、吐き気のするような男とのセックスに耐えた。
 それなのに、一年ほど経ったある日突然、母親は男と消えた。文弥に巨額の借金だけを残して――。文弥は絶望のあまり手首を切った。幸い、大事には至らなかったが、文弥は藤井の舎弟達に監視され、死ぬことも逃げることも叶わなかった。
 手首の傷が癒えると、文弥は瀬川にうら寂れた病院に連れていかれた。そこには、やせ細った何人かの男がベッドに横たわっていた。金に困って内臓を売りに来た男達だった。
「おまえは運がいい。もう少し鼻が低かったら、この男達と同じように内臓を売る羽目になっていたはずだ。おまえにその容姿を与えてくれた母親に感謝するんだな。もし社長のもとに行くのが嫌なら、このままここに置いていってやるが、どうする?」
 淡々と問われて、文弥は生まれて初めて『死』というものを強く意識した。怖かった。生きたいと思った。文弥は震える指先で瀬川の背広を掴み、「置いていかないで下さい」と訴えた。


 静かだった。聞こえるのは雨音だけで、周囲は闇に満ちている。雨音に閉じこめられ、文弥は深い孤独の海を漂っていた。
 瀬川の声を聞きたいと思った。一度もかけることはなかったが、瀬川の電話番号は自宅も事務所も携帯も暗記している。
 瀬川はもう眠ったのだろうか、それともまだ起きているだろうか? 女を抱いているのかもしれない。あの美貌だ、言い寄る女は掃いて捨てるほどいると聞いた。何人かセックス・フレンドがいるという話もあった。
 そんな話を耳にする度、文弥は胸が張り裂けそうな悲しみに襲われた。今はそれさえも懐かしい。もう、瀬川の噂話さえ聞くことができないのだ。
 これから瀬川のいない生活が始まる。瀬川の中で、自分の存在が消えていく。文弥はそれが何よりも辛かった。
 翌朝、雨は上がったが、大学へは行かなかった。すべてが億劫で、何より早紀と顔を合わせるのが辛かった。
 文弥は近くのコンビニでウイスキーを何本か買った。昨夜、ほとんど眠れなかったので、酒の力を借りて眠ろうと考えたのだ。
 藤井に囲われるようになって最初に覚えたのが酒だった。酔いつぶれれば何も考えずに済むのが好きで、文弥はよく酒を飲んだ。
 中学こそ出席日数ギリギリでなんとか卒業したが、高校には行かせてもらえなかった。藤井は独占欲の強い男だったため、文弥が同級生と話すことさえ嫌ったのだ。そのくせ愛くるしい人形を他人に見せびらかすのは大好きで、バーやクラブには、頻繁に連れ歩いた。
 お陰で、文弥のことが藤井の妻の耳に入るのに、さして時間はかからなかった。 



          act.4
 中学を卒業して半年ほど過ぎたある日、文弥は突然、瀬川に美容院とブティックへ連れて行かれた。少し癖のある栗色の髪を短く切りそろえられ、瀬川の見立てで、文弥は生まれて初めてスーツを着てネクタイを締めた。
「奥様がお会いになりたいそうだ」
 クールな瀬川が困惑していることに文弥は驚いた。
「旦那様はご存じなんでしょうか?」
「ああ、すっかり動転して俺に電話してきた。接待ゴルフと称して伊豆に逃げたよ」
「旦那様のご命令なら、奥様にお会いします」
 所詮、文弥にはどうすることもできないのだ。ただ、流されるまま生きていくしかない。
 連れて行かれた本宅は、大きな門のある広い日本邸宅だった。その奥まった茶室で、文弥と瀬川は一時間も待たされた。普段、正座などしたことのない文弥は、それだけでグッタリと疲れてしまった。
 現れた女は、四十代の凛とした女だった。きっちりと結い上げた黒髪と品良く着付けられた結城紬。どこから見ても上流階級の奥方だ。
「よく来てくれました。藤井泰治の妻、綾子です」
 年齢を感じさせない、涼やかなよく通る声だった。
「初めまして、小川文弥です」
 これほどまでに完璧で美しい妻がいるのに、男はなぜ自分など抱くのかと文弥は不思議に思った。文弥にはこの女のように豊かな胸もなければ、子供を産むこともできない。未だに上手く口淫もできないし、男を悦ばせるテクニックなど欠片もない。
 文弥は酷く惨めな気持ちで、綾子が流れるような動きで茶を点てるのを見ていた。
「文弥さん」
 茶碗を下げた綾子が居住まいを正して言った。
「藤井があなたに飽きるまでは、しっかりお仕えなさい」
 驚いて顔を上げると、綾子は婉然と微笑んでいた。妻としての誇りと、取るに足らない愛人への蔑みを込めて……。
「はい」
 文弥は圧倒されて俯いた。


「相変わらず怖い女性だ」
 藤井家を辞してすぐ、文弥の隣の後部座席で瀬川はポツリと呟いた。それから思いついたようにダンヒルを一本取り出して火を点ける。
 藤井はヘビースモーカーだったが、瀬川が煙草を吸うのは珍しいことだった。綾子に会ったことで、余程、緊張し、疲れたのだろう。文弥が黙って煙草の煙を見ていると、それに気づいた瀬川が慌てて火を消した。
「すまない。煙草は嫌いだったな」
 そう言って、ご丁寧に車の窓まで開けてくれる。そんな風に他人から気を遣われるのは初めてだった。それどころか、瀬川に煙草が嫌いだと言ったこともないのに、瀬川がそれを知っていたことに文弥は少なからず感動した。
「瀬川さん、旦那様はあとどのくらいで僕に飽きるんでしょう?」
 藤井と付き合いの長い瀬川なら、わかるのではないかと思って、文弥は訊いてみた。
「さあな。一年かもしれないし、十年かもしれない。人の心なんて、そうそう推し量れるものじゃない」
 瀬川はつまらなそうに言うと、背もたれに身体を預け目を閉じた。これ以上、話しかけるなということだ。文弥は、そっと溜息を吐くと車窓の景色に目を移した。
 色づき始めた街路樹が秋の訪れを告げている。もともと外出するのは好きな方ではなかったが、藤井の愛人になって以来、どこへ行くにも監視が付くので、文弥は全くといってよいほど外出しなくなった。
 必要なものは通いの家政婦に頼んで買ってきてもらえばいいし、遊びに誘ってくれる友達など一人もいない。日々、社会から取り残されていく淋しさと不安に、文弥の酒量は増える一方だった。
「そこの書店の前で止めてくれ」
 瀬川が運転手に命じる声に、文弥は我に返った。
「ここで待ってるか? それとも一緒に来るか?」
「一緒に行きます」
 瀬川に問われて、文弥は迷わず答えた。瀬川がどんな本を買うのか興味があったからだ。書店に入ると、瀬川は広い店内を見渡して言った。
「15分後にこのレジの前で会おう。欲しい本や雑誌があるなら買ってやるから好きに選ぶといい」
 文弥にとって、本は図書館で借りるもので、買うものではなかったが、瀬川の好意が嬉しくて、大好きなロジックパズルの本を一冊選んだ。マンガ本やバイク雑誌を予想していた瀬川は、文弥がおずおずと差し出した本に驚いた。が、文弥の中学での成績がかなり上位だったことを思い出して納得した。感情表現は下手だが、知的好奇心の強い子供なのだ。
 マンションに戻ると、瀬川はキッチンで二人分のコーヒーを淹れて文弥を呼んだ。Tシャツとジーンズに着替えた文弥は、命じられるまま瀬川の前に座る。
「大学入学資格検定試験を受けないか?」
 コーヒーカップに口を付けた瞬間、瀬川にそう切り出され、文弥は固まった。瀬川の真意を探ろうと、上目遣いにそっと瀬川を盗み見る。
「社長は、あとどのくらいでおまえに飽きるかと訊いたな。将来が不安なら学歴をつけておけ。大検に受かったら、大学に進学できるよう社長を説得してやる」
 思いがけない瀬川の提案に、文弥は目を丸くした。しかし、勉強は嫌いではなかったし、取り立てて趣味もない文弥は時間を持て余していたから、二つ返事で同意した。
 瀬川は、文弥が大学入学資格検定試験に受かるかどうか、藤井に賭を持ちかけた。文弥のもとに教材一式が届いたのはその一週間後のことだった。



          act.5
 文弥が、『接待』のために貸し出されるようになったのは、十七歳になって間もなくだった。自分が仕込んだ極上の性奴を他人に見せびらかすためか、あるいは一向に懐かないペットに対する苛立ちからか、何ヶ月かに一度、藤井は文弥を他人に投げ与えたのだ。
 相手は、代議士や企業の役員、時には年配の女性経営者もいた。藤井に命じられるまま、淡々と接待をこなしていた文弥だが、一度だけ、もう嫌だと泣いたことがある。
 その男は、警察のキャリアだった。穏和で知的な雰囲気からは想像もつかない変質者で、文弥は見たこともない様々な器具でいたぶられた。
 何より辛かったのは、洗浄と称して不気味な浣腸器で体内に液体を入れられ、男の目前で排泄を強いられたことだ。その後、ベッドに引きずって行かれ、男のイチモツで深々と抉られた。気が狂うのではないかと思うほどの凄まじい苦痛と共に文弥は失神した。
 気がついたとき、側にいたのは瀬川だった。発熱し、起き上がることもままならないほど衰弱した文弥の世話を、瀬川は一週間もしてくれた。会話らしい会話も交わさなかったが、文弥がどれほど精神的に傷ついたか誰よりも察してくれていた。文弥はその時、瀬川さえ側に居てくれれば、どんなに辛くても生きていけると思った。


 その年の暮れ、文弥に念願の大検合格通知が届いた。瀬川は気前よく藤井に賭け金を払ったが、藤井は大学に進学することには難色を示した。学費を惜しんでのことではなく、文弥が外の世界を知ることを恐れたのだ。
「お願いです、大学に行かせて下さい!  瀬川さんのように弁護士になって、旦那様のお役に立ちたいんです」
 ベッドで懇願した文弥に、藤川は複雑な顔をした。
「おまえも瀬川のように俺から逃げるつもりなんだろう。俺が同じ失敗を二度もすると思うのか?」
 そして暫く考え込んだ後、文弥を試すように言った。
「どうしても大学に行きたいというのなら、背中に墨を入れろ。そうだな……牡丹の花がいい。おまえの白い肌に映える紅い牡丹だ。墨を入れれば、おまえも立派な極道だ。それなら学費を出してやる」
 ゴクリと文弥の喉が鳴った。一生消えない入れ墨を背負ってまで、大学に行く価値があるのだろうか……。だが、文弥は瀬川のことを想った。これは瀬川が与えてくれたチャンスだ。夢も希望もなく、ただ酒に溺れていくしかなかった文弥に、瀬川が与えてくれた目標だ。
「それでお許し頂けるなら、墨を入れます」


 藤井が懇意にしている彫物師のもとに通いながら、文弥は一年間、猛勉強をして大学を受験した。
 地元のT大学・法学部に合格すると、瀬川は大層、喜んでくれた。入学祝に車を買ってやるというのを断って、遊園地に連れて行って欲しいと頼んだ。遊園地なら、乗り物にかこつけて大っぴらに手を繋いだり抱きついたりできる。瀬川は呆れたように文弥を見たが、「一度も行ったことがない」と訴えると渋々、承知してくれた。
 千葉のDランドに、二泊三日で行くことになり、文弥は夢見心地だった。しかし、墨を入れるにはかなりの苦痛と発熱を伴う。ずっと体調の優れなかった文弥は、乗り物に数種類乗っただけで、吐き気で動けなくなってしまった。
 瀬川に抱きかかえられるようにして、ホテルにチェックインした。瀬川は、嘔吐で汚れた服を着替えさせようとして、初めて文弥の入れ墨に気づいた。
「……文弥、これはなんだ!」
「旦那様から聞いてないんですか? 牡丹です。まだ半分しか彫れてないけど綺麗でしょう?」
 文弥は、弱々しく微笑んだ。
「おまえは馬鹿かっ! 何だってこんな…ものを……っ!!」
 普段、クールな瀬川が激昂していた。文弥は不思議そうに瀬川を見つめた。
「どうして……そんなに怒るんですか? 僕なんかのために……?」
 しかし瀬川は答えなかった。苦しげに文弥の顔を凝視し、それから無言のまま部屋を出て行った。   
 三時間後、瀬川は薬と煙草を買って、スイート・ルームに戻ってきた。そしていつも通りのポーカーフェイスで、予定を変更してホテルでのんびり過ごそうと宣言した。
 翌日は、部屋でチェスをした。ホテルのコンシェルジェが、退屈しのぎにと勧めてくれたのだ。文弥は、一度も瀬川に勝てなかったが楽しかった。本当に、楽しかった――。


 なんだか昔のことばかり思い出している、と文弥は苦笑した。時計はすでに午後一時を示しており、朝から四時間も飲み続けていたことになる。しかしウイスキーを一本空けても、まだ眠りは訪れない。文弥は眠ることを諦めて、やはり大学へ行くことにした。
 将来を……未来を考えるのは難しかったが、取り敢えず今は大学に行くことしか思い浮かばない。早紀を傷つけてしまったことを、早く謝りたかった。たとえ、もう友達に戻れないとしても……。



          act.6

 一ヶ月ぶりのキャンパスは新緑に溢れ、すっかり初夏の装いだった。ほとんどの学生が半袖姿で、女子の中にはすでにノースリーブの者までいて、文弥は長袖のポロシャツが恥ずかしくなった。
「小川君!」
 研究室に顔を出すと、院生の牧原未知が素っ頓狂な声を上げた。室内にいた何人かが、その声に振り向く。
「伯父さんが亡くなったんですって? 大変だったわね。すごく顔色悪いわよ、大丈夫?」
 他大学から編入してきた牧原は、藤井と文弥の関係をまだ知らないようだ。決まり悪くて文弥は俯いた。
「あの……、三上さんは?」
「今日は見てないわね。それより梅村先生にお会いした? ずいぶん、心配してたから挨拶しといた方がいいわよ」
「そうですか」
「あ、先生なら、3号館の602講義室よ。早く行ってらっしゃい」
 気が進まなかったが背中を押されて、文弥は梅村教授に会いに行くことにした。研究室のある5号館から渡り廊下を使って3号館に移動する。
「小川っ!!」
 大きな声で呼び止められて振り返ると、さっき研究室にいた佐野武志が追いかけてきていた。
「あのさ……、早紀のことなんだけどさ……」
 言いずらそうに佐野は口籠もった。
「…………」
 文弥は黙って佐野を見ていた。長い沈黙の後、ようやく佐野は吹っ切ったように言った。
「俺達、また付き合うことになった。だから今、俺の部屋にいる」
「え?」
「去年の夏まで俺達、付き合ってたけど、おまえと付き合いたいから別れてくれって言われたんだ。けど昨夜、早紀が泣きながら俺の部屋へ来てさ、おまえのこと、諦めるって。それで…まあ……」
 佐野は照れくさそうに言葉を濁した。
「そうなんだ……。良かったね」
 文弥は、驚きも失望も感じなかった。目の前の、気のいい男は、早紀を大切にしてくれるだろう。何も心配はいらない。文弥には、早紀を失った淋しさよりも安堵の方が大きかった。そして早紀の強かさが羨ましいと思った。


 梅村教授に形ばかりの挨拶を済ませると、文弥はマンションに戻った。薬局で、最近発売された睡眠薬を買って……。
 食欲もなく、とにかく眠りたくて睡眠薬を二錠飲んだ。しかし、一時間しても期待した効果はなく、さらに二錠飲んだ。眠りたいのに眠れない。苛立ちは募るばかりだ。文弥は携帯電話をじっと見つめた。
 登録こそしていないが、瀬川の携帯番号は暗記している。そろそろと手を伸ばし、文弥はゆっくりと番号をプッシュした。
 だが、回線を繋ぐ勇気などなかった。何度も何度も番号を入力しては消す。そんなことを繰り返していると、隣室から女の喘ぎ声が聞こえてきた。隣の学生がガールフレンドを連れ込んで、コトを始めたらしい。
 文弥は怯えて耳を塞いだ。かつて自分もあんな風に男の下で喘いでいたのかと思うと居たたまれない。文弥は、逃げるように部屋を出た。
 もしかしたら藤井は、文弥が瀬川に恋していることを知っていたのかもしれない。藤井は、打合せと称してよく瀬川をマンションに呼びつけた。そして、瀬川が来るのを知っていながら、文弥を抱いた。
 文弥が懸命に声を抑えようとしても、藤井は許さなかった。わざと文弥を煽り、焦らし抜いて、はしたない嬌声をあげさせた。瀬川はそれをどんな思いで聞いていたのだろう……。
 気がつくと、文弥は瀬川の事務所のあるビルの前に立っていた。ここには、藤井に連れられて何回か来たことがある。すでに夜の九時を回っていたが、窓に明かりが見えることから、まだ瀬川が事務所に残っていることが伺えた。
 遠くからでいい、瀬川をひと目見たかった。文弥が目を凝らして窓を見上げていると、切ない想いが通じたのか、人影が現れた。
 期待に胸を弾ませた文弥だったが、それが藤井の息子・隆治とわかって凍り付いた。向こうも文弥に気づいたらしく、すぐにブラインドが乱暴に下ろされた。
 激しい後悔に襲われながら、文弥は駅に向かって足を速めた。しかし、改札を通る寸前で隆治に捕まってしまった。そして強引に隆治の車へ連れ込まれた。
「親爺の次は、憲崇さんをたぶらかすつもりか!? この淫売がっ!」
 容赦なく平手打ちされ、文弥は後部座席の窓に頭を打ち付けた。口の中が切れたらしく、鉄の味が広がる。
「憲崇さんは、おまえとは住む世界が違うんだ。身の程を知れっ!! おまえには充分な手切金を渡してやったはずだ。それなのに憲崇さんにまで手を出したら、ただじゃ済まないぞ! 組中の男に輪姦させて、海に沈めてやるっ!!」
 火を噴くような激しさで文弥を罵ると、隆治は文弥を乱暴に車の外に放り出した。もはや文弥には遠くから瀬川を見ることさえ許されないのだ。
 その時になって、文弥は自分が瀬川の写真一枚持っていないことに思い至った。急に笑いがこみ上げてきた。あまりにも自分が滑稽で…惨めで……。
 文弥はいつまでも泣きながら笑い続けた。



          act.7
 自分の部屋に戻った文弥は、酷い悪寒がしたので身体を温めようとシャワーを浴びた。バスルームを出ると、そこに姿見があった。
 文弥はいつも用心深く鏡を排除している。背中の入れ墨を見ないようにするためだ。そのため以前のマンションには、身繕いをするための小さな手鏡がひとつあっただけだ。この姿見は、おそらく瀬川が引っ越しの際に買い足してくれた物だろう。
 運悪く、普段は決して見ないようにしている入れ墨が、文弥の目に飛び込んできた。右肩から腰骨にかけて紅い牡丹が乱れ咲いている。文弥を抱いた多くの者達が、美しいと絶賛した花だ。しかし、文弥にとっては禍々しいだけの花だった。
 文弥は、低く呻くと力一杯、鏡面を殴りつけた。派手な音を立てて、ガラスが割れ落ちる。隆治の言うとおり、この身体は汚れきっていると思った。自分の身体が疎ましくて堪らない。文弥は破片の一つを拾い上げると、手首に当てた。

僕が死んでも、誰も泣かない
誰も泣かないから、
僕はここでひっそりと死んでいく

 文弥はノートにそう走り書きすると、残っていた睡眠薬を全部、ウイスキーで喉に流し込んだ。それからバスルームに行って、血の滴る両手首をシャワーの下に晒した。血が、赤い糸を引いて排水溝に吸い込まれていく。それをぼんやりと眺めながら、文弥は満足げに微笑んだ。
 心残りといえば、瀬川に好きだと伝えられなかったことだが、所詮、相手を困らせるだけのことと諦めた。
 やがて手首の痛みを凌駕する睡魔に襲われて、文弥は笑ってそれに身を委ねた。ヤット、ネムレル……。   


「悪い、遅くなった」
 瀬川はネクタイをほどきながら、女に声を掛けた。すでにシャワーを浴びたらしい女は、バスローブ姿だ。
 情事はいつも、駅前のホテルを使っている。地下駐車場から直通エレベーターで宿泊階に行けるため、人目に付きにくいからだ。女は、ホテルのアーケードでショッピングするフリをして部屋へやって来る。
 女の名は、清水琴音。藤井綾子の末妹だ。藤井家の目を盗んで二人が関係を持つようになって、かれこれ三年になる。琴音は銀行員の夫との退屈な結婚生活に嫌気がさして、瀬川の方は琴音の豊潤な肉体と物わかりの良い性格に惹かれて、火遊びを続けている。
 ネイルサロンで凝ったデザインを施された爪が、ゆっくりと瀬川の頬をなぞった。ふんだんに金をかけた女の身体は、匂い立つような色香を放っている。瀬川は、雄の本能に従って、女の紅い唇を貪った。
「主人は今夜、出張で戻らないから、私、泊まっていけるわ」
 濃厚な口づけに瞳を潤ませながら琴音が囁く。
「それは嬉しいな。だが、急ぎの仕事があるんだ。隆治さんに泣きつかれてね」
「隆治の独占欲が強いところは義兄さんにそっくり。あなたを仕事で自分に縛り付けておきたいのよ」
 琴音は、瀬川のワイシャツのボタンを外しながら苦笑した。
「あの子……名前は文弥くんと言ったかしら? あの子にあなたを取られるんじゃないかとピリピリしてる。駅で見かけたくらいで殴らなくたっていいのにね」
「殴る……? 文弥を殴ったのか?」
 琴音の胸をまさぐっていた瀬川の掌が動きを止めた。
「気になる?」
「……いいや」
 瀬川のポーカーフェイスを見つめていた琴音は、諦めたように言った。
「きっと、あなたに会いに来たのよ。あの子、やつれて酷い顔してた」


 大人しい子供……それが文弥に初めて会ったとき、瀬川が抱いた第一印象だった。確かに並はずれて美しい子供だったが、成長と共に骨格が変わり、可憐で儚げな印象は、いずれ薄れて消えていくだろうと思った。
 ところが、文弥はいつまでたっても子供のままだった。セックスで、どんなに欲情に濡れ、艶めいたとしても、それは表面的なものに過ぎず、文弥の精神は常に濃い霧につつまれていた。
 たゆたうように彼方を見つめる瞳と相まって、まるで人外の生き物のようだった。怒ることも、憎むことも知らず、ただ流されるままに生きる文弥の弱さは、自分で人生を切り拓いてきた瀬川には到底、理解できないものだった。
 宇宙人だと思っていた文弥を、初めて人間だと意識したのは、背中の入れ墨を見たときだった。まるで羽衣を奪われ、地上に繋がれてしまった天女のように、文弥は悲しみ傷ついていた。
 瀬川は、そんな文弥を生々しい性の対象として意識して、ひどく動揺した。理性を総動員して平静を取り戻すのに三時間もかかったほどだ。それ以来、文弥に対する瀬川の温度が少しずつ変わり始めた。
 それに気づいた藤井は、瀬川を牽制するようになった。わざと瀬川のいるときに文弥を抱いたり、文弥が女子学生と親しく付き合うことを黙認したりしたのだ。瀬川は、藤井の「老いらくの恋」を憐れんだ。そして自分は同じ轍を踏むまいと誓った。
 藤井が死んで、文弥の処遇をどうするかという話になったとき、藤井の妻・綾子は皮肉混じりに、瀬川に払い下げてやると言った。ところが息子の隆治は、それに猛烈に反対し、大阪の組長に売ると言い張った。以前、文弥をSMまがいのプレイで痛めつけた男にである。
 文弥の『接待』で、組はいくつもの商談を成立させ利権を得てきた。組を発展させた功労者に、それはあまりにも酷い仕打ちだと説き伏せて、瀬川は文弥が大学を卒業できるだけの手切金を出させた。
 文弥には、大学の近くに適当なワンルームマンションを見つけてやり、そこに引っ越しをさせた。さらに、文弥が大学院を卒業するまで家賃を三割引にするという条件で、瀬川のポケットマネーから大家に一時金を支払った。むろん文弥にも藤井組にも秘密でだ。
 ずっと家政婦の世話を受けていた文弥は、炊事・洗濯・掃除いっさいできなかった。一度、家政婦が正月休みの時、空腹を酒で紛らわそうとして急性アルコール中毒になり病院へ担ぎ込まれたことがある。以来、一年三百六十五日、文弥には見張りがつけられていた。
 『生活する』ということを知らない文弥が、誰の目も届かないマンションに置き去りにされれば苦労するのはわかりきっていたが、まだ若い文弥には適応力があるはずだ。一歩ずつ自分の足で歩くことを学んでいくだろう。
 瀬川は、長年連れ添ったペットを捨てるような後味の悪さと共に、文弥を見捨てた。それがお互いのためだと信じて。



          act.8

 あれからどのくらいの時間が過ぎたのか、文弥にはまったくわからなかった。シャワーの音がひどく遠くに聞こえる。まるで雨音のようだ。
 身体が鉛のように重く、手足の感覚がない。このままここでじっとしていれば、いずれ死が訪れてくれるのだろうか……。こんなことなら飛び降り自殺にすれば良かったと文弥は後悔した。しかし、もう動く力など残ってはいない。しかたなく文弥は目を閉じた。
 その時、部屋のインターホンが鳴った。意識が朦朧としていた文弥には、それがインターホンの音だとわかるまで暫くかかったが、「文弥」と呼ぶ瀬川の声だけはすぐにわかった。
 愛しい男の顔をひと目見たくて、文弥は最後の力を振り絞って起き上がろうとした。腕に力を入れたため、乾いた血で塞がれていた傷口から、再び血が噴き出し、鋭い痛みに意識が覚醒した。だが、文弥は起き上がることはできなかった。
 失血による貧血で、一旦は覚醒した意識も次第に薄れていく。最後の最後までツイていない人生だったと、文弥は苦笑して意識を手放した。


 琴音をホテルの部屋に残して自宅マンションに戻った瀬川は、文弥のことが気になって、持ち帰った仕事に手がつかなかった。
 琴音が言うように、文弥は本当に自分に会いに来たのだろうか? それならば一体、何のために? 何か問題でも起こったのか? 文弥は瀬川の携帯番号を知っているはずなのになぜ電話してこないのか……。
 グルグルと頭の中を駆けめぐる疑問に、瀬川は一時間あまりも電話の前で逡巡した挙げ句、ようやく文弥の携帯番号をプッシュした。しかし、文弥は何回コールしても電話に出ない。疑問は不安に変わり、瀬川は一睡もできないまま夜が明けるのを待って、文弥の部屋を訪れた。
 室内には明かりが灯っているのに、インターホンを押しても何回か呼びかけても応答はない。玄関のドアには鍵が掛かっていなかった。文弥の不用心さに呆れつつ室内を覗いた瀬川の目に飛び込んできたのは、割れた鏡と赤黒く変色した血痕だった。


「酷い男」
 情事の後、ベッドで煙草をくゆらせていた瀬川に、珍しく琴音が恨み言を口にした。うっそりと向けられた男の視線を、琴音は悲しげに受け止める。
「何が……不満なんだ?」
「私を抱きながら、あの子の事を考えてたわ。そんなに気になるのなら、お見舞いに行けばいいのに。意識が戻ってから一度も病院に顔を出してないんでしょう?」
 文弥の怪我は順調に回復していたが、瀬川は敢えて見舞いに行っていなかった。文弥の顔を見ると抱きしめて許しを請うてしまいそうになるからだ。そんな自分は許せない。感情に流されるなど、自分にはあってはならないことだ。
「手の掛かるガキは嫌いだ」
 琴音から目を逸らして、そううそぶいた瀬川の顔は苦悩に満ちていた。
「あの子をどうするつもり?」
「さあな……俺の手には負えない」
 瀬川は苛々と煙草を揉み消す。
「あなたが助けた命よ。責任を取らないでどうするの? また見捨てるくらいなら、助けたりしなければ良かったのよ。その方が、あの子にとっても良かったわ」
 母親のように琴音から諭され、ますます瀬川は苛立つ。
「俺に、あいつが自殺しないよう、見張っていろって言うのか? 足手まといにしかならないガキの面倒をみろって? 冗談じゃない!!」
「馬鹿ねぇ……あの子の目を見て『愛してる』って言えばいいのよ。それですべてが解決するわ」
 琴音は、淋しそうに笑った。彼女は一度も瀬川に「愛している」と言われたことがない。それが瀬川の誠実さだと知っているから……戯れに愛を口にする男ではないと知っているからこそ、瀬川にその言葉を求めたりもしなかった。
 瀬川は黙って琴音の身体を引き寄せると、再びその逞しい身体の下に組み敷いた。

僕が死んでも、誰も泣かない
誰も泣かないから、
僕はここでひっそりと死んでいく

 瀬川はノートの走り書きを思い出し、ブランデーを煽った。凍り付くような文弥の孤独に、目眩にも似た恐怖を感じる。いったい、いつから文弥はそんな孤独を抱え込んでいたのだろう?
 その時、パウダールームからきっちり身支度を整えた琴音が出てきた。
「帰るわ」
 頭のいい女だと思った。彼女は瀬川のために、嫉妬や独占欲を巧みに隠し、便利で都合のいい女を演じてくれる。
「ああ、また来週、ここで逢おう」
「いいえ、今日が最後よ。私、主人の転勤先へ付いていくことにしたの。あなたにはもう逢わない」
 突然の別れに、瀬川は目を見張った。琴音はゆっくりと瀬川のもとに歩み寄ると、その唇に甘やかなキスを落とした。
「今まで楽しかったわ、ありがとう。あのボウヤと幸せになってね」
「いきなり別れを切り出した挙げ句、俺に世間の笑いものになれというのか?」
 嫌味のつもりで問うと、琴音は意地悪く口角を引き上げた。
「あなたって本当に臆病者ね。私と火遊びする勇気はあるくせに」
「俺のどこが臆病なんだ、聞き捨てならないな」
「最後だから教えてあげる。あなた、世間体が悪いだの足手まといだのと言い訳してるけど、本当はあの子に汚れた自分を知られるのが怖いのよ。『いい人』でいたいから、あの子に関わらないでおきたいのよ」
 琴音は憐憫に満ちた瞳で瀬川を見つめた。
「それのどこが臆病なんだ?」
「つまりね、あなたはあの子が好きだから、あの子に嫌われるのが怖いのよ。まるで、好きなのに告白もせずに物陰から見てるだけの小娘みたい」
 喉の奥でクククッと笑うと、琴音は瀬川に対する未練を振り切るように、身を翻して部屋を出て行った。瀬川は、背後でドアの閉まる音を聞きながら、茫然と立ちつくしたまま身動きできなかった。
 瀬川には、文弥の気の狂いそうなほどの孤独がわかる。だからといって、いったい自分に何ができるというのか……。
後編へ続く誰も泣かない・後編へ

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