◎金魚


「骨を――返しにきました」
女の人が言った。知り合いのような気がするんだけど、誰なのか思い出せない。とても綺麗な人だ。真っ赤な着物の袖から伸びた妙に白い細い手が、丁寧に風呂敷包みの結びを解く。中からはサッカーボールがひとつ入りそうな木の箱があらわれた。
「骨を――骨を返しにきました」
また女の人が言った。カナカナカナ、と庭でひぐらしが鳴いている。もう夕方になったんだ。そろそろ神社のお祭りがはじまる頃だろう。
お祭りのことを考えると僕はいてもたってもいられなくなった。朝にお父さんからお小遣いは沢山もらったので、今夜のお祭りではいろんなものを好きなだけ買うつもりだ。食べ物は綿飴、たこ焼き、りんご飴……それに射的や型抜き、金魚掬いもやろうと思ってる。もうそろそろ学校で約束した友達との待ち合わせの時間。だけどこの女の人がいるから支度しようにも出来ない。そもそも骨ってなんのことだろう。まるで心当たりがない。僕の親戚で最近死んだ人はいないはずなのに。
「誰の骨なの?」
僕が尋ねると、女の人は応えた。
「どうかお納め下さい、これはあなたの骨です。あなたが川底に忘れていった、あなた自身の骨です。本来ならもっと早くお返しすべきだったのですが、ここに来るまでにいろいろ手間取ってしまいました。でも返すことが出来てよかった。私は、十年前あなたに助けられた金魚です」
「え?」
と聞き返した時には女の人はいなかった。蝉の声に混じって金魚売のおじさんの妙に鼻にかかった高い声が聞こえてきたかと思ったら、すぐに遠くなっていく。
僕は寝ぼけて夢でもみていたのだろうか。ところが卓袱台の上には女の人の持ってきた木の箱が置かれていた。蓋を取ってみると中には真っ白い壷が入っていた。僕が壷の中身を見ようと手を伸ばしたとき、台所からお母さんの呼ぶ声がした。
「しんちゃん、しんちゃん」
僕はハァイとだけ返事をすると、開けようと思っていた壷をそのままに、部屋から出ようと襖に手をかけた。
「しんちゃん」
見知らぬおばさんが目の前にいた。僕はベッドの上にあおむけで寝ているみたいだ。家とは違う白い部屋。絆創膏と小便の混ざった嫌なにおい。すぐにここが病院だと気づいた。そして驚いたように口をぽかんと開け、悲しそうに歪めた眉の下、目を真ん丸くして僕の顔をじっと覗き込んでいるこの人がお母さんだということも。僕の知っているお母さんよりもずっと老けて見えるけど、雰囲気と声はちっとも変わってない。目の上の大きなほくろにも見覚えがある。
「どうしたの、お母さん。なんで僕は病院にいるの?」
喋ってみてびっくりした。だって僕の声、お父さんみたいに低かったんだもの。とても小学生の声とは思えない。それになんだか喉に石が詰まったように重苦しく、一言話すだけでもひどく疲れた。お母さんは目にいっぱい涙を浮かべながら、僕に言った。
「本当に信じられないわ、まさかしんちゃんが目覚めるなんて。しんちゃん、これは夢じゃないわね……ああ、しんちゃん、びっくりしないで聞いて頂戴。しんちゃんはね、お祭りの日に川に落ちておぼれてから、ずっと眠ったままだったのよ。あれからもう十年も……」
「十年だって!」
お母さんの言葉がきっかけとなり、あのお祭りの夜のことが思い出されてきた。
あの夜、僕は予定どおり友達と一緒にお祭りを楽しんだのだ。お父さんからもらったお金でいろんな屋台を廻っていろんなものを買った。射的、型抜き、そして金魚掬い……。
一匹の金魚が入った袋を片手にぶら下げながら、僕は神社を出た。家の方向が違う友達と途中で別れたあと、僕は行く時も通った橋の上に差し掛かった。下からは穏やかな川の流れの音が聞こえる。中ほどまで来て僕は立ち止まった。
それは優しさなんて立派なものじゃなく、ほんのつまらない思いつきだったんだ。とにかくその時、僕は金魚を逃がしてやろうと思った。手すりは僕の身長よりもちょっと高かったので、欄干の鉄の柵のところに足をかけてよじ登り、身を乗り出した。袋の口を緩めようと手すりから両手を離した時だった。バランスはあっという間に崩れ、僕の身体は前のめりになった。そして頭から真っ逆さまに黒い水の中へ落ちていったのだった。金魚と一緒に。

私は、十年前あなたに助けられた金魚です――

僕は夢でみた女の人のことを考えていた。
あの日以来、僕の時間は止まった。この身体は外の時間にあわせて成長していたけれど、心はずっとあのお祭りの日に閉じ込められたままだったのだ。金魚は自分のせいで僕がこうなってしまったことに責任を感じていたのかも知れない。だから十年という長い歳月をかけて、僕をここまで送り届けてくれたんだ、きっと。骨壷のなかに僕を詰めて、遠い、遠い道のりを――
お母さんがお医者さんと話しに外へ出ている間、僕は一人で考えていた。これからどうやって生きていけばいいのだろう。ひょっとしたら、このまま目覚めないほうがずっと幸せだったのかも知れない。学校もたくさん休んでしまった。友達や先生はどうしているかなあ……きっと僕のことなんて覚えていないんだろうな。十年という長い年月を取り戻すためにはやらなきゃいけないことがいっぱいだ。そう考えると僕は不安で押しつぶされそうになる。ああ、泣くのは久しぶりだな。飼ってた犬が死んだ時以来だ。きっとこの先泣きたくなることがいっぱいあるだろう。だから僕は、今のうちに流せるだけ流して涙を涸らしてしまおうと思った。

――こぼれた涙は魚のように生臭かった。

◎モドル◎