貴方がくれたもの 1


 斉藤明日香(さいとうあすか)が、高校の同級生だった平野美都留(ひらのみつる)と再会したのは、上司に連れて行かれた新しい取引先との会食の席でだった。
 明日香は、外灯に照らされてこちらに近づいて来る相手方の一団を、料理屋の玄関先で見て、あら? と思った。一団の中に、なんとなく見たことのあるような顔があったのだ。
 明日香方は五人で、明日香一人が若くて女性で、あとの四人はビジネス経験を積んだ熟年男性だった。相手方も五人で、良く言えば年季が入った、悪く言えば古狸か古狐のような人が女性一人を含んで四人と、青年が一人。
 その青年の顔がだんだんはっきり見えて来るにつれ、明日香の脳裏には平野美都留という名前が自然に浮かんで行った。そして、その青年が平野君に間違いないと確信した明日香は、彼から顔を背けた。高校を卒業して、昭和と平成を跨いで十年が経ち、その間、二人は一度も会っていなかった。それなのに明日香には彼だとわかった。
 今日の会食には、明日香の同僚の女性が出る予定だった。その人が夕方階段を踏み外して足を痛めたので、急きょ明日香が出ることになった。
 明日香は、まったくありがたくないことになってしまったと思った。

 斉藤明日香と平野美都留は高校一年の時、同じクラスだった。彼はいつも教室の片隅で一人でひっそりと本を読んでいた。彼のことをもし覚えている人がいたら、彼についておそらくこのように言うだろう。
 無口で、表情に乏しかったが、陰気臭いと言うよりも、むしろ透き通るような感じで、そこにいることを意識させない空気のような存在だった。
 けれども、明日香は彼のことを気味の悪い存在だと思っていた。それにはちゃんとしたわけがあった。
 明日香は高校に入って図書委員になった。中学三年の時にやった図書委員が面白かったので、高校では三年間図書委員をやると決めていた。こうと決めたらとことんまで貫く性格だった。そして、貸し出し当番として初めてカウンターに入った昼休み、どの人が最初に本を持って来るのだろう? と思いながら、図書室内に目を配っていた。すると、本を手にカウンターの方に歩いて来る一人の男子生徒に目が行った。
 同じクラスの人だわ。えっと、あら? なんて名前だったかしら。確か、ひ、ひら、ひらた、だったような、ひらの、だったような。
 そんなことを考えながら彼を待っていた。それが平野美都留だった。
 案の定、彼はカウンターに来て、生真面目なほどに顔を強張らせて本を二冊差し出しながら、
「お願いします」
 と、小さく言った。それが、二人で向き合った最初だった。
 明日香は、初の貸し出しの相手が同じクラスの人だということが妙に嬉しかった。そして、平野美都留という名前を頭の中にしっかり刻み込んだ。そうすると、もう彼と友だちになれたような気分になった。それに間近で見て、彼の顔立ちがわりと整っていることに改めて気づいて、これも嬉しくて、
「平野君と話すのは始めてよね。私、同じクラスの斉藤よ。わかってくれているかしら? ――貸し出し期間は一週間、返す時は必ずカウンターまで持って来て下さい」
 そう顔を輝かせながら言った。
 彼は何故か顔を伏せた。どこかそわそわしているような感じがした。それから彼はおもむろに顔を上げて、明日香の顔に目を当てると、その目を思いっきり細くした。おまけに唇も思いっきり横に引っ張るように開かれていて、歯がもろに見えていた。せっかくの良い顔立ちが台無しだった。
 明日香はぎょっとした。なんていやらしい顔と思った。
「ありがとう」
 彼は、本当に小さな声で言ってカウンターから離れて図書室の外に出て行った。
 それを見送った明日香は、彼の姿が見えなくなった途端、
「なんなのよ、あれ」
 と、口の中で低く呟いた。
 資料を探しているという上級生が来た。明日香は自分ではわからないので、カウンターの後ろの部屋にいる司書の先生を呼んだ。司書の先生が出て来ると、その手伝いをしていた明日香と同じクラスのもう一人の図書委員の女の子も出て来た。明日香はその女の子と貸し出しの仕事をしながらお喋りをしたが、平野美都留のことは黙っていた。口にするのもおぞましかった。
 明日香は教室に戻った。あと数分で午後の授業が始まるが、教室内は、生徒がいくつかの塊に分かれ、思い思いに喋っていて騒がしかった。
 明日香は、ふと気になって平野美都留の姿を探した。自分の机についてぽつんとした感じで本を読んでいた彼を見て、一瞬、まともな男の子じゃない、と思った。が、次の瞬間、先ほどのあのいやらしい顔が瞼いっぱいに広がって、不快感が込み上げて来た。いや! 気持ち悪い、不潔、と思って、首を小刻みに横に振った。彼と一年間同じ教室の空気を吸うのかと思ったら憂鬱になって来た。
 明日香は、彼にできるだけ近づかないようにして一年間を過ごし、二年になって別のクラスになって、ほっとした。ただし、近づかないようにしていても、クラスが違っても、図書委員として頑張る明日香と図書室をよく利用する彼とは、図書室で良く一緒になった。
 明日香がふと振り返ると、彼の姿が視界に入る。一体いつからいたのだろうか? と不思議に思うくらい、突然音もなく虚空から現れ出たような感じでそこにいた。彼は明日香のそばにすうっとやって来ると、「いつも頑張っているね」とか「いつもご苦労さま」とか小さな声で言って、頬を引き攣らせるようにして歯を見せると、またすうっと去って行く。明日香が彼の貸し出しや返却の手続きをすると、「ありがとう」と口ごもった声で言って、変に目を細めて歯を見せる。
 明日香は、そんな彼のことが気味が悪くて逃げたいのだけれど逃げられなくて、彼の気分を害さないように気をつけていた。
 それと、平野は、山久(やまひさ)という男子と仲が良かった。山久は全く平均的な男子だった。明日香は山久と三年間同じクラスで、級友として普通に話していた。平野はこの山久に会うために二年生の時も、三年の時も、明日香のいる教室にたびたび顔を出した。
 そんなこんなで三年間、明日香のそばには平野美都留の影が気味悪くゆらりゆらりと揺れていた。
 それは卒業式を明日に控えた日の出来事だった。明日香は、母から用事を言いつかっていたので、友人たちと別れて一人で歩いていた。すると、「斉藤さん」と声をかけられた。振り返ると、平野美都留の姿が目に入った。
 彼はつかつかと歩み寄って来て、明日香の前に立つや否や、
「三年間、ありがとうございました」
 と言いながら、腰を折って深く頭を下げた。いつになくはっきりした大きな声だった。それから頭を上げて、
「いつまでも元気で、明るい笑顔でいて下さい」
 と言って、明日香の横を通り過ぎて行った。
 咄嗟の出来事に、呆然としていた明日香が振り向くと、駆け去って行く彼の後姿があって、それは直に視界から消えた。
「なんなのよ……」
 明日香は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で呟いた。平野美都留から言葉をかけられたのは、それで最後だった。

 明日香は高校時代を思い出しながら、九人のあとから少し遅れてついて行って、九人が席に着くのを部屋の出入り口で待ってから、伏し目がちで室内を進んで空いている下座に腰を下ろした。テーブルを挟んで向かいには平野美都留が座っているが、明日香は彼の顔には目を当てなかった。あんまり顔を合わせたくなかった。
 挨拶やら自己紹介やらあった。明日香は身体を上座に向けていたが、平野が自己紹介した時には、流石に彼の方に目を向けた。
 上座に向いていた彼の顔が、不意に明日香に向けられた。その瞬間、明日香は、身体が縮こまった。しかし、彼の顔が明日香に向いていたのは一瞬のことだった。たまたまそうなったという感じだった。
 明日香は、どうやら自分が考えているほど、自分のことなど彼の眼中にはないように思われて来て、解放されたような気分になって、全身から力が抜けた。その時、
「今後のことは、平野君に一任します」
 という声がして、明日香は思わず彼の顔に目をやった。
 自己紹介の時以外は黙っていた彼が、精悍な面構えで自分の考えを力強い口調で流暢に述べ始めた。
 明日香は、そんな彼を、高校の時とは随分雰囲気が変わった、と思いながら眺めていたら、彼から卒業前に、ありがとう、と言われたことを思い出した。
 あれは何に対してありがとうと言ったのかしら、それにいつも変な顔を私に見せていたけれど、あれはどういうつもりだったのかしら? 
 そんなことを考えた。
 また、平野の顔が明日香に向けられた。明日香は話しかけるつもりだった。しかし、上司たちもいる仕事の延長上の会食の席で、どんな風に話しかければいいのか咄嗟に思いつかなかった。明日香がまごついていたわずかな間に、平野は真面目な顔をさらに引き締めたかと思ったら、明日香からつんと顔を逸らした。
 明日香は、どうも彼からあまり良く思われていないらしいと感じたが、しかし、ショックはなかった。昔を思い出してちょっと感情的になっただけで、できたら顔を合わせたくなかった人だったという現実的思考が、彼女に戻っていた。

 会食後、料理屋を出て、路上で上司たちを見送っていた明日香は、上司たちの姿が見えなくなると肩を上下させて首を回した。目が回る感じがした。料理を三分の二くらい食べて、ビールをコップ一杯飲んだが、それが身になっていないような気がした。肩にかけたバッグのひもを直して、ラーメンを音を立ててすすりたいと思いながら歩き出しかけたら、ふと平野美都留のことが脳裏に浮かんで、思わず立ち止まった。彼が我が社を担当するのだから、これからも会う機会があるだろう、とそこまで考えたのだが、
「もう終わり!」
 そうきっぱりした口調で言ったものの、変な疲れを感じて肩を落とすと、目を地面に当ててぼんやりしていた。
 と、何かが肩に触れて、明日香は「ひゃっ」と引き攣った声を上げて振り返り、ぎょっとした。背後に平野の顔があって、彼の手が明日香の肩に乗せられていた。
「高校卒業以来だね。俺のこと、忘れてはいないよね? 斉藤明日香さん」
 彼はそう言うと、唇の両端を上げて歯を見せた。
 明日香は、いやらしい顔と思った。この表情も、突然現れ出て来るところも、やっぱり気味が悪くて怖かった。込み上げて来る不快感を抑えながら、
「忘れてなんかいないわよ、平野美都留君」
 と言った。
「俺、全然食べた気も飲んだ気もしなくて、軽く一杯やりに行くつもりなんだけれど、一緒に行かないか?」
 明日香が返答に窮していると、彼は、
「俺と一緒にいるところを、見られたくない人でもいるのか?」
 と言った。
 明日香は恋人の有無を訊かれたと思った。これまでLIKEした人は何人かいたが、LOVEに至ったことはなかった。現在は、LIKEしている人もいない。だから、
「そんな人、いないわよ」
 と言った。が、直ぐにしまったと後悔した。袋の中にアジを六匹入れたところ、レジで五匹ですね? と言われて、咄嗟に六匹ですと本当のことを言ってしまうのと同じだった。いると言っておけば、それが誘いを断るいい口実になったのにと思った。
「だったら問題ないだろう。だが、もしこれから海を渡って帰るっていうんなら、バスの時間というのもあるよな。何時のバスに乗るつもりなんだ?」
 二人の出身地は狭い海を挟んだ隣の県だった。二人が高校三年の十二月に、県と県を繋ぐ海の上を通る高速道路が開通して高速バスの運行も始まり、通勤が便利になった。高速道路の起点は二人が現在いるY市で、終点が二人の通った高校のあるK市だった。
 明日香は短大を卒業して二年ほど海を渡って通勤したのち、Y市でアパートを借りて一人で暮らすようになった。だから、
「私、こっちで暮らしているの」
 と言った。
「一人でか?」
「そうよ」
 明日香は答えてから、余計なことを言ってしまったと思った。
「それだったら、なおさら問題はないだろう? 俺、楽な格好で美味い酒を飲みたいんだ。斉藤さんと高校時代の思い出話をしながらだったら、きっと美味い酒になると思う。斉藤さんがいるといないとでは、酒の味が違うに決まっている。――ちょっとでいいから、つき合ってくれよ」
 明日香は、お世辞なのはわかっているが、悪い気はしなかった。随分口が上手くなったと思いながら彼をよくよく見た。彼は随分上背があった。明日香はそのことに今初めて関心を持った。
 明日香は、高校卒業時で身長が百六十五センチあって、高校時代には彼とあまり身長差を感じなかった。明日香の身長は今も百六十五センチくらいだが、彼は多分百八十センチはあると思われた。
「随分背が伸びたのね」
 明日香は言った。やや強張った口調で彼に話しかけ続けていたのだが、今のは柔らかい口調だった。
「大学に入ってから、ぐんと伸びた。――さあ、行こう」
 彼はそう言うや否や、歩き出した。
「本当にちょっとだけよ……」
 明日香は気乗りしない顔で呟くと歩き出した。
 前を行く平野の背筋はぴんと伸びていた。明日香は、高校時代の彼は前屈み気味だったことを思い出して、それで実際の身長よりも小さく見えていたのだろうと思った。
 大きな銀杏の木が歩道に植わっていた。銀杏はまだ青い葉を茂らせている。黄葉し始めるのは一箇月くらい先だろう。店舗の照明に照らされて浮かび上がって見えるその銀杏に、明日香は薄気味悪さを覚えた。
 明日香は、平野美都留に危険なものを感じて、いつでも逃げ出せるように身構えながら彼の後ろを少し離れてついて行った。





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