戦国長編小説・蝶や花や 第1話『吉法師、天下を夢見る瞬間(とき)』

戦国長編小説・蝶や花や 第1話『吉法師、天下を夢見る瞬間(とき)』

織田信長と濃姫は、天下統一に向けて躍進しながらも、心のなかにはお互い忘れることができない過去の恋があった。次第にふたりは大戦(おおいくさ)を経て、一心同体という位置づけにまでなる。両者を中心に、信長の幼馴染である鶴姫のほか、光秀、家康、お市、忍の望月千代女、半蔵、風魔など、総勢60名を超える武将、大名、忍の頭領・子供たちが登場。7割は史実に従いながらも、霊力といったファンタジー要素とif(想像)の世界を取り入れた群像劇。これから長くなりますが、ぜひお付き合いいただけると幸いです。今回の1話は、個人HPでアップする予定の1話が未完成なため、序盤のみ先行公開となります。

第1幕『幼き日の決意』

第1幕『幼き日の決意』

 夢を見ていた。だが、夢の主はわからない。
 時は戦国の世――。ぼやけた視界のなかで、ふすまが開く。奥にひとりの男が鎮座している。姿こそはっきりとしないものの、それが放つ覇気は周囲の空間を()るほどの光景である。
「道に迷ったか……それとも……にそそのかされたのか?」
 男が口にするそれは切れぎれとしている。すると今後は――。
「いえ、あなたこそ、道に迷われている」
 ふすまを開けて入った男の声が臆することなく返す。それを否定するようにすぐに女の声がする。
「なさねばならぬことがあるのです。あなたは、それから目を背けている」
 侵入者に屈強な言葉で返すと、覇気を纏う男の前に長大な薙刀を持って立ちふさがる。
「是非もなし。なさねばならぬことをなそう」
 そう命じられると、侵入者を説き伏せることも無駄とわかった女は薙刀を構え、長息のあと断を下して言った。
「わたしはもう、迷わない」
 豪壮な薙刀をものともせず侵入者の男に瞬足で詰め寄った――。
 夢は、そこで途切れたのである。
 
 いまからさかのぼることおよそ500年ほど前。室町幕府の力が失墜し、戦国大名と呼ばれる者達が日本の覇権を求めて争った、戦国時代。
 その真っ只中の1534年、5月12日。現在の名古屋市中区。当時は尾張と呼ばれていたこの地域の那古野(なごや)城にて、一人の男児が産声を上げた。
 吉法師と名付けられたかれは、天下布武を掲げ、長きに渡る戦乱の世に終止符を打とうとした古今無双の英雄。のちの織田信長である。

 吉法師が8歳のときである。
 夏の盛り、賑やかな城下町で、吉法師と同い年のひとりの幼女がしゃがんで泣いている。名は鶴姫。どうやら吉法師が泣かせたようで、周囲にいる友数人の子らが謝れと怒っている。
「また鶴を泣かせたなー。吉法師、謝れ!」
 鶴の着ている着物はほかの子たちと同じだが、とくに鶴の服はあちこち朽ちていて、砂やほこりで汚れきっている。まるで吉法師が鶴を引きずっていじめたような雰囲気になっているが、違う。続いてひとりの少女が吉法師に言う。
「お尻触るなんて最っ低! 早く謝りなさいよ!」
「なんだ、おまえは触ってもらえないからって焼きもちか? 年上のくせにみっともないぞ」
「本気で殴るよ!」
 このころのかれは、武将の子とは思えない粗野な身なりをしていた。武家の子であれば、小袖に袴といった格好が普通。それが草履もはかず、庶民の子らと同じように麻の単(ひとえ)を着て、裾は少年らしく膝上まで上げ、おまけに砂で汚れきっているではないか。その見た目通り、吐く言葉もその通りである。幼くして那古野城を与えられていた信長は、自信と活気に満ち溢れ、城下町の子供たちと一緒に遊んでは、破天荒な性格で振舞っていたのだ。城内は、かれを止めることは無駄だとわかり、日中はなかば放置しているほどだ。そのため、周囲からは、尾張のうつけもの、と称されるようになっていたのである。
「悪かったな。これでいいだろ。あーもう、めんどくせえ。帰る。また明日、じゃあな」
 そう言って去ろうとする吉法師の腕を年長の少女がつかむ。
「ちょっと待ちなさいよ! 待ちなさいって!」
「なんだよ、謝っただろ」
「もう少し優しくしてやりなよ」
「べつにひっぱたいたわけじゃあるまいし」
「ねえ、真面目に聞いて。鶴、おっとう死んじゃってから、あんたになついてる。それはあんたもわかってるはず。あんた喧嘩強いし頼りになる。だけど思いやりがないし優しさもない。ちょっとは鶴の気持ちも考えな」
 言い放ち、鶴を引っ張って去っていった。毎度のこととはいえ、さすがにほかの友らも呆れたのか、なにも言わずに少女のあとを追って去っていく。
「冗談も通じねえのかよ。たく、つまんねえやつらだな」
 と、あてもなく城下を歩く最中、ふと鶴のことを思いだす。少女らしく愛らしい顔をした鶴が、ぼろぼろの服を着て泣いている姿は見るも無残だ。着物(布)は庶民には高価な物で、複数持っている人は少ない。縮まないよう、洗うのはひとつの季節に1回程度。汚れていてもしかたのないことなのだが、ほかの子と比べてあそこまでぼろぼろになるのには理由があった。
 友の少女が言ったように、鶴は吉法師になついている。鶴はそう口には出さないが、行動でだれもがわかるのだ。華奢な体で吉法師の荒々しい遊びを真似る。かれのそばにいたいという表れとして。吉法師にも、なんとなくそれはわかっていた。だが少女にはっきり(いさめ)られたことで、あらためて鶴の気持ちを認識した。
 少しやりすぎたかと気になりはじめる。粗暴で一般常識の通じないかれであっても、懐かれるのは嫌いじゃない。いやむしろ、頼りにされるということは、武将の子にとっては褒め言葉であり名誉なのだ。少し反省、というより、舞い上がったともいえるかれは、まだ日のあるうちに、山の麓にある鶴の家に向かった。

 一軒だけ佇む茅葺(かやぶ)き屋根の家がそうだ。鶴の着物に似てあちこち傷んでいる。
「鶴、いるか……? 鶴?」
 入口を覗き込んで呼ぶ。少しして、まだ目を赤くした鶴が奥から姿を見せた。
「なに?」
「さっきは悪かったな。すまん………なんで黙ってんだよ」
「……おっかあ! ちょっと出てくる」
 と、吉法師の横を通って歩いて行く。
「おい、どこいくんだよ」
「散歩」
 なにを考えているかわからないが、とりあえずついて行くことにする。
 他人に謝ったことがない吉法師はどうやって切り出したらいいかわからない。しかも相手は泣き虫だ。
 いっとき歩かされ、さすがに声をかける。
「たく、いつまですねてんだよー」
「べつにー。散歩してるだけだもん」
 予想外に明るさのにじむ声だった。
「早く帰らないと日が暮れるぞ」
「あんたこそ。早く帰らないと、お、し、か、り、を受けるんじゃないの」
「お化けが出るぞ」
「あんたお化け怖いの?」
「そうじゃなくって」
「あーつかれた。ちょっと座る」
 川辺の草むらに座るふたり。
「なあ、まだ怒ってんのか?」
「なにが?」
「はあ? なんだよそれ」
「ここ大好き。うちから遠いから、ちょっと来るのに勇気いるんだ」
「おまえ、まさかそれで俺を引っ張って来たのかよ」
「そゆことー、ふふ」
「たく、俺はおまえの家来じゃねーぞ」
「なんでいっつもそういう言いかたしかできないの」
 と、ぼそっとつぶやく。
「なんか言ったか?」
「なんでいっつもそういう言いかたしかできないのかって言ってるだけ!」
「と言われても」
「あんたのそういうとこ、(小声で)大っ嫌い」
「はあ?」
「いっつも人の話、適当に流すし、優しくないし、なにより偉そうだし」
「俺は武将の子。しかも嫡男(ちゃくなん)(正室の生んだ長男)で、父上の跡を継ぐんだ。偉くて当然だろ」
「武将なんて、ただの人殺じゃない」
 そう小声でつぶやく。
「な、なんだと? もういっぺん言ってみろ!」
 人殺しと言われ、謝りに来たことすら頭から吹き飛ぶほど逆上する。そして泣きだす鶴。
「くそ。いつも泣きやがって。卑怯だぞ!」
 だが、鶴が泣いているのは、吉法師が声をあげたからではない。腕の中に顔を伏せ、すすり泣きながら言う。
「あんたもいつかは、わたしのおっとうと同じように死んでいくんだ。戦(いくさ)なんてただの殺し合いじゃない。なにが武将よ。なにが大名だ。馬鹿みたい」
「それ以上言うと本気で怒るぞ」
 顔を上げて言う。
「わたしは……あんたに死んでほしくない……」
 鶴の泣き顔を見て、一瞬で怒りが静まる。だれもが自分をうつけものとして見るなか、自分のことをひとりの人間として大事に思い、泣いてくれる鶴を、もう泣かせまいという気持ちが生まれた瞬間だった。
 そして、自分に死んでほしくないという、このたった一言に、恋をした。

第2幕『鶴のために』

日が暮れた草道、鈴虫の音色に包まれながら、ふたりは帰路につく。
「どうした、足、痛いのか?」
 長い時間歩いてきたため、足を痛めた鶴。
「大丈夫」
「ほら」
 と、しゃがみ手をうしろに伸ばす。
「おんぶしてやる」
「ありがと」
「よっこらせっと」
 ふたたび歩きはじめた吉法師の背中で、鶴はなにを言っていいかわからなかった。毎日、そしてさっきまでいじめられていた。この先、ずっとそうなのだろうと思いこんでいた。でもたったの半日で、頼りたかった人の背中にいるのだ。帰路を一歩、一歩進むたびに、鶴の人生は大きく変わろうとしていた。
「ねえ」
「ん?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「……お嫁さんって、もう決まってるの?」
「嫁?」
「おっかあから聞いた。武将の息子はお国のために、他の武将の娘を嫁にもらうんだって」
「いつかはそうなるだろうって、父上が言ってた」
「そっかぁ……」
「なあ」
「なに?」
「ん、いや、なんでもない」
「人の真似しないでよ」
「武将って、ならずにすむ方法ないのかな」
「え?」
「俺は、この先もずっと、鶴や、みんなと楽しく遊んで暮らしたい。戦なんて、したくはない」
「さっきはごめんね」
「いいよ。本当のことだから。なにもかも、鶴の言うとおりだ」
「おっとう、戦に行く前言ってた。誰かが天下人になれば、戦はなくなるって。天下を統一すれば、殺し合う必用はないんだって。そしたら、みんな平和に暮らせる。
毎日、いつもみたいに楽しく遊んで暮らせる」
「天下人……」
「わたし……あんたに戦に行ってほしくはないけど、あんたに天下人になってほしいな」
「俺が天下人……だけど、天下人になるまでに、きっと人を大勢殺さなきゃならない。それは……おまえが泣くからしたくない」
 吉法師の背中に顔を埋めて言った。
「もし本当に天下人になってくれるなら……わたし、泣かない……」
 そのあと家につくまで、ふたりはなにも話さなかった。
 
 鶴の家の近くまで来たとき、あたりはすでに真っ暗になっていた。
「ここで大丈夫」
「じゃ、降ろすぞ」
「ありがと。また、付き合ってね」
「たく、しゃーねーな」
「ね、ねえ」
「どうした?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ、またかよ。言えよ」
「……無理だってわかってるけど、わたし、あんたのお嫁さんになりたい」
 そう言って走っていった。冗談を言っている顔には見えなかった。告白され、照れる気持ちと、応えてやりたいという気持ち、父がそんなことを許してくれるのかという思いなどが入り乱れ、鶴から目を離すことができないでいた。
 すぐに馬が走ってくる。乗っているのは、吉法師の父である信秀と信長、2代に渡って織田家に仕える家老。信長の後見役でもある平手政秀である。
「若君、捜し疲れましたぞ。もう日が暮れております。みな心配されておりますぞ。
家老たるこの平手政秀、日夜駆け回る若君にもしものことがあったらと思うと夜も……お? ところで若君。あの娘は」
 走って家に向かう鶴を見て言う。
「なんでもない。友だ。政秀、乗せてくれ」
 馬が駆け出すと、もう見えるはずもない鶴の姿を探すように振り返りながら、居城である那古野城に向かった。

 吉法師は数日間、居城の自室にこもった。たまに城内を考えこんでいる様子でうろつき、書庫に入り、また自室に戻るなどを繰り返していた。いつもなら、朝から庭に出て木刀を振り回す。昼になれば女中の尻を触るなどのいたずらをしたり、裏道から城下へ下りていくのが日課。それが突然引きこもりだしたのだ。
 城内は次第に何事かと騒ぎ始める。おとなしいのはいいことだが、ただただ不気味である。父にでもひどくしかられたのだろうとほくそ笑む女中ふたりが、たまたま歩いてきた吉法師とぶつかりそうになる。女中のひとりが驚きかわそうとして倒れる。
「す、すまん」
 女中の手を取り立ち上がらせた。
「申し訳ありません!」
 謝る女中の横を何事もなかったように歩いていく。ふたりは鳥肌が立っていた。改心した演技でもして、あとでとんでもないいたずらをされるのではないだろうかと。

 その夜。みなが寝静まったころ、吉法師の父である信秀の居城、古渡城(ふるわたりじょう)にかれはいた。
「久しぶりだな。おまえに那古野城を譲ってからというもの、ここにはほとんど来たことがないというおまえが、そんな真面目くさった顔でやってきて、ふたりきりで話がしたいなどと……いったいなにがあったのだ? 久々に一緒に晩飯を食うておるのだ。楽しい話でも聞かせてみろ」
「……天下を取るには、どうしたらいい」
 信秀は食べ物を吹き出しそうになる。
「おれは真面目に聞いてるんだ! 天下って、どうやって取ればいいんだ」
「なぜそんなことを聞く」
「理由なんてどうでもいいだろ。知りたいんだ」
「理由を聞かなければ教えることはできん。天下統一など、いち武将からすれば雲をつかめと言われているようなものだ。多くの大名たちが天下を夢見る中、そのほとんどは夢や憧れで終わってしまうものだ。戦で部下の命を無駄に散らしてな。軽々しく天下を語るのは、おまえのためにはならない」
「天下人になってくれと言われた」
「だれにだ」
「それは……」
「……好きな娘でもいるのか?」
「ち、違う」
「いつも荒々しく駆け回ってうつけものと言われておるのに、いまのおまえの眼はとても優しく澄んでおる。そんなことができるのは、恋だけだからな」
「天下を取れば、みな平和に生きられる。戦もなくなる。だから天下人になりたいんだ」
「守ってやりたいやつができたのだな」
「そんなんじゃねえけど」
「そんな中途半端な気持ちで天下は取れんぞ」
「そうだ! 守ってやりたいやつがいる。だから教えてくれ!」
「よし、よく言った。いいだろう。天下を取るための方法の第一歩を教えてやる。一度しか言わないからよく聞いておけ」
「わかった」
「天下を取るといっても、当然、いきなり取れるわけではない。まずこの尾張を統一しなければ、ただのかごの中の鳥だ。この尾張の国主は誰だ?」
「斯波(しば)だ」
「そうだ。守護大名(守護は将軍が任命する軍事・行政官で戦国大名の前身)たる斯波義統(しばよしむね)だ。だがいま、実際に権力を握っているのは斯波ではない。その家臣であり代理を務める守護代、織田信友だ。斯波は国主とはいえその力は軟弱だ。信友の操り人形にすぎん。我らはこの信友の分家であり家臣にあたるため、我らは国主である斯波の家臣・信友のそのまた家臣だ。
信友は実権を握ってはいるが、力をつけてきた我らを恐れている。 いまでは我らの兵力は信友を上回っている。下克上を恐れ、気が気でないはずだ」
「なら信友を討てるのか?」
「はは、待て待て。この乱世にも主従関係はある。ただ戦をしかけてはただの謀反だ。それに、こちらも兵力を大きくそぐことになる。それを好機と見れば、長年の宿敵である美濃の斎藤道三は必ず攻めてくるだろう」
「じゃあ、いまはどうしようもないのか」
「おまえは根はしっかりしてはいるが、まだ子供だ。うつけものと呼ばれても、元気でたくましい子だと言ってすまされる。だが大人になればそうもいかん。いつまでもただのうつけものでは、天下など到底取ることはできん。天下を取るには、優れた家臣、信用できる家臣に恵まれていなければならん」
「信用できる……家臣……」
「戦となれば、身内や味方の軍勢からも裏切りが者出ることはよくあることだ。当然わたしは、親族同士が争うことなど、微塵も望んでいない。だがいまは乱世だ。いつなにが起きても不思議ではない。そんなとき、共に天下を目指す、真の友が必要になってくるだろう。おまえを心から支えてくれる、真の友がな」
「友?」
「そうだ、友だ。天下を取りたいのなら、まず強くなれ。喧嘩が強くても刀の扱いとなると別だ。得意な乗馬だけでなく、槍や刀や弓を学び、兵法も学べ。心も強くなれ。自分の負の感情に打ち勝ち、決してくじけない強い心だ。そうすれば自然と、おまえを慕う者たちが、おまえの周りに集まってくるだろう」
 多くのことを語る信秀だったが、吉法師は確実に理解できたことがある。信友を討たずして天下を取ることはできないということだ。そのためには、まず信頼できる部下と、真の友を得る必要があると、父は言っているに違いない。
 かれは馬の扱いには慣れていたが、槍や刀、そして弓といった戦に必要な武器に関してはほとんど知識がなかった。そのため、家臣の中から腕の立つものを頻繁に呼び出しては、こっそりと稽古をしていった。そして、うつけものとして振舞うふりをしながら、鶴姫のように、そんな自分を慕ってくれる人物を選び出そうとしたのだ。このときすでに、吉法師の天下取りは始まっていた。

 そして5年の歳月が経ち、13歳のとき、古渡城で元服し、信長、と名乗った。勇ましいその顔立ちは、とても13歳には見えないと、周りの者は口にした。その翌年。大きな出来事があった。信秀は長年、美濃のまむしと呼ばれた智将、斎藤道三に苦しめられ、小競り合い繰り返していた。決着はつかず、そのあいだに、尾張に隣接する東側の三河が、強敵である今川の勢力圏内に入っている。今川家の当主、今川義元は戦国大名のなかでも、天下に最も近い男とされている。
 北に斎藤、東に今川とあって、この不利な状況を打開するため、信秀は道三と和睦し、同盟を結ぶことにしたのだ。信長と、道三の娘『帰蝶(きちょう)』の年齢が近く、婚姻しやすいと思ったからである。一方の道三は、美濃で続いていた内戦に手こずっていたため、この提案を好機と見て受け入れた。

 時が来た。信長は古渡城で信秀から告げられる。
「信長よ。正徳寺という寺にて、道三がおまえに会いたいと言ってきている。娘を嫁に出す前に、おまえを一目見ておきたいと思っているのだろう。道三は智将と名高い男だ。この同盟も、将来おまえ次第でどう転ぶかわからん。決して道三に隙を見せてはならん」
「わかった。決して隙は見せない」
「話は変わるが、余計なことかもしれんが、まだ天下の夢は捨てていないのか?」
「あたりまえだ。そのために道三の娘と婚姻するのだからな」
「そうか。ということは、まだあの娘とうまくやっているのだな」
「え?」
「おまえが守ってやりたいと言っていた娘のことだ」
「天下を取るためならなんでもする。父上の言うことも聞く。だからひとつだけ頼みがある」
「なんだ?」
「あいつを、側室にしたい」
「そ……側室? は、はははははは!」
「なにがおかしい」
「まだ正室すら迎えておらぬというのに、もう側室の話を出すとは、さすがうつけものよ! しかしおまえたちはそんな話まで進んでいるのか!? 家臣たちも娘のことは知らぬのだろう? うつけが恋をしているとばれるのが恥ずかしいのか?
こそこそ密会とはうまくやっておるな。政秀の手を借りてか?」
「おれはまじめに言ってるんだ」
「そんなことはわかっている。なすべきことをしっかりこなしておれば、おれはおまえの色恋に口出しする気はない。そのときが来れば、側室として迎えてやれ」
 信長は、この同盟を織田家主導でやっていくために決してなめられてはいけないと思い、ある秘策を用意した。

 そしていよいよ会見の日。道三は、うつけものと呼ばれる信長を早く見たくてしょうがなかった。腹心の堀田道空(ほったどうくう)とともに町中に隠れ、信長の様子をうかがう。信長のお供は700人を超え、足軽が先頭。それに次ぐ部隊は長大な槍を持ち、弓鉄砲もかかげている。部隊は立派だが、信長はというと……。
 道空は苦笑いをしていた。
「あれが信長のようです。年は14、5のはずですが、少々大人びておりますな。しかしあの格好。とても見られたものでは」
「多くの者がたわけと言っている場合、案外その逆であるものだと常々思っていたが、それは間違いだったのか」
「芋縄の腕輪に、腰に火打ち袋。そして半袴(はんばかま)。とても名君と呼ばれる信秀の息子には見えませぬ。探せと言われてもそうそうお目にかかれる代物では」
「そんなことは説明しなくても一目見ただけでわかる」
「殿。同盟はよしとしても、姫様をあれに嫁がせるのはお考えなおしくださりませ。蝶よ花よと育てられた、この美濃の宝にござりまする。姫は気が強いところもあるますゆえ、これでは火に油」
「ひとまず会見で出かたを見よう。あとのことはそれからだ」
 ところが、信長は寺につくと、まず四方に屏風(びょうぶ)をめぐらせた。そして長袴にはきかえ、髪を整え、腰に小刀を差して道三の前に現れた。道空は驚いて言葉も出ない。道三は、やはり、という表情だ。
「信長殿。見事である。うつけものと呼ばれる理由、この道三にはよくわかった」
「であるか」
「娘は少々気性が激しいが、涙もろいところもある。あまり、いじめないでやってほしい」
「であるか」
「はっはっは! そう警戒せずともよい。さあ、盃(さかずき)を交わそうではないか。この強力な同盟と、ふたりの婚姻を祝って」
 ここに、信長を天下統一に導く強力な同盟が誕生した。
 信長は道三から大きな信頼を得ただけでなく、狙い通り、織田家主導の同盟に持っていくことができたのである。
 道三は、会見での信長の一連の演出を見て、この同盟を反故にすることは絶対に不可能であろうと確信した。
 信長は人生最初の大仕事を、見事にやってのけたのである。
 城に戻った道三らはこう話す。
「なにを聞いても、であるか、しか言わず、やはりどう見ても、ただのうつけものでありましたなあ」
「それはどうかな。見たか。我ら美濃衆の槍は短いが、尾張衆の槍は空を突き上げんばかりに長大だ。うつけと呼ばれるあの信長殿が、会見にあれだけの兵力を見せつけてきた。我らに下る気など毛頭ないという意思の表れだ。そして思っていた通り、本物のうつけではなく、うつけのふりをしているだけなのだ。そうやって、将来、自分に従うであろう家臣に目星をつけているのであろう。さすが信秀の子よ。我らはいつか、あのうつけものの門前に馬をつなぐことになるかもしれぬな」
 この日から、道三の前で信長をうつけものと呼ぶ者は、二度と現れなかった。
 
 会見の報告を受けた信秀は予想以上の成果に喜悦し、古渡城で信長に賛辞を贈った。
「うまくいったようだな! さっそく聞かせてくれ。おまえの目に映った道三は、どんな男であった?」
「父上によく似ている」
「わたしに?」
「温厚でとても猛将には見えなかったが、頭は切れるようだ。隙を見せたつもりはないが、向こうにもまったく隙はなかった。娘思いの温かい父親に見えた。なぜあのような男と父上が争っているのか、おれにはわからない」
「人は向き合って初めてわかりあえるのだろうな。わたしも最初から道三と向き合っていれば、長年、戦をする必用はなかったのかもしれぬな。しょせんわたしも、時代に飲まれたひとりの武将に過ぎなかったということだ。それは自分自身よくわかっている。だからわたしは、自分を天下にふさわしい男だとは思っていない。天下を夢見たことはあるが、その夢は、おまえに託すことにした」
「父上……」
「婚儀の日取りが決まった。そこでだ。本当ならなら鶴姫を正室に、というおまえの気持ちはわかっている。正室はたったひとりしか得ることができず、その力は側室の比ではないからな。それはもはや不可能ではあるが、せめて、濃姫との婚儀の前に、一度、この古渡城に連れてくることを許そう。会ってみたい。日取りを決めて、連れてくるがよい」
「本当か!? 感謝する」
​ 日取りを決めた信長は、いつものようにひとりで鶴の屋敷に向かっていた。本来ならば子どものころとは違い、身分相応に護衛のお供を連れていくべきだが、鶴との密会場所である屋敷の場所は、だれにも知られたくない、ふたりの秘密の場所だった。それに万一のことを考え、屋敷の場所はだれも知らないほうが彼女の安全につながると思っていた。
 鶴は迎えにくる信長を待つあいだ、屋敷で着物を着替えた。その後、どんなに捜しても母の姿がない――。

第3幕『帰蝶ではなく濃姫として』

 信長は鶴姫を父の信秀に会わせるため、いつものように供を連れず単身で鶴の家に到着した。
「鶴、迎えに来たぞ……鶴?」
 入口から中を覗くが返事はない。裏へ回ろうとしたとき――。
「動くな」
 脇から姿を見せたのは刀を持った侍。その腕には拘束された鶴がいた。
 信長には男が自分を狙った刺客であるとすぐにわかった。
「信長……おっかあが……。ふたりとも殺される。わたしはいいから逃げて!」
「鶴に手を出すな!」
「刀を後ろに投げ捨てろ。言っている意味はわかろう」
「だめ……」
「先に鶴を放せ。言うとおりにする」
「もう一度だけ言う。刀を捨てろ」
「……わかった」
 と刀を後ろに投げ捨てる。選択の余地はなかった。信長の決意を見て取った鶴は激しく暴れて男の手から離れる。
 男はそれを逃さず鶴の背中を斬り裂く。裂け目から血しぶきがあがり、男の目を塞いだ。よろけ目を拭って視界が開けた瞬間、信長の一閃が目に映る。
 男が倒れるよりも早く、鶴に駆け寄る。
「鶴……おい」
「……無事で……よかった」
「何も言うな! いま運ぶ!」
「だめ……ここにいて」
「ばかいうな! こんな傷、すぐ治してやる!」
「覚えてる……? 天下を取ってくれるって」
「忘れるわけない!」
「……よかった……ねえ……わたし……あんたのお嫁さんに……なれたんだよね……」
 無我夢中で、背中から溢れる血を体の中に救って戻そうとする。
 だが、鶴はもう動かなかった。

 その4日後の夜。那古野城の一室には、知らせを受けた信秀の姿があった。
 そばにいる政秀に問う。
「何者かまだわからないのか」
「手がかりになるようなものはなにも身につけておらず。しかし城内では、守護代、信友を疑う声が出ております。信友は温厚な信秀様への警戒心は薄いと思われるものの、血気盛んな若君に対しては、その将来に相当警戒を強めていると耳にしております」
「だからどうしろというのだ。暗殺の疑いだけで兵を出せというのか。信友の放った刺客であるなら、それこそが奴の狙いだろう。証拠もなく動けばただの謀反だ。黒幕がわからぬ以上、下手に動くことはできん。よいか、あの娘のことはなかったことにしろとみなに伝えておけ。まず周りの者たちが忘れなければ、あいつは一生、この悪夢にとりつかれたまま生きていくことになる」
「承知いたしました」
「あいつはまだこもったきりか……。鶴姫とその母親の遺骨だが、様子を見てあいつに渡してやれ……。なんということだ。濃姫との婚姻を明日に控えているというときに……」
​ 信長は後悔していた。子どものころならいざ知らず、いまの自分がどういう立場の人間か。それをもっと理解していれば、供をつけていたはず。自分の軽はずみな行動が招いた結果である。
 いまだ傷心中の信長のもとへ、ついに濃姫が嫁いできた。名は帰蝶だが、美濃から来た姫、という意味から、濃姫と呼ばれた。信長15歳、濃姫13歳のときである。
 しかし、信長は婚儀に姿を見せず、朝から城内に姿がなかった。夜になって、ようやく戻ってきたのである。
 それを知った信秀は廊下で信長を呼び止める。すでに婚儀は終わっており、父から殴られてもいい状況だが、信秀の口調は優しかった。
「いったいどこへ行っていた。おまえの気持ちはわかっている。だが正室を迎える婚儀に夫の姿がないではすまされないではないか?」
「骨を、埋めてきた」
「……おまえなりのけじめをつけて来たということか……。ならばそれ以上言うまい。姫が長いあいだ待っている。早く行ってやれ」
 信長は鶴姫の遺骨を埋めてきたのだ。幼いころ、天下を誓ったあの川辺に。この数日で、かれが出した答えである。
 寝巻きに着替えた信長が寝室に入る。灯りがわずかに部屋を照らし、互いの表情をうかがうのがやっとのなか、ふたりは初めて対面する。濃姫は蒲団のそばに正座したまま、信長を見ようとしない。
「待たせてすまなかった」
「構いませぬ」
 濃姫は淡々とした口調で返す。
「帰蝶と申します」
「年は13と聞いた。少し、大人びているな」
「左様にございますか」
「今宵はすまなかった」
「構いませぬ……形式上の婚儀に、夢など持っておりませぬ」
「……そうか。きょうは疲れているはずだ。明日またゆっくり話そう。灯りを消すぞ。早く休むといい」
 だが、濃姫は動かない。灯りを消し、振り返ると、きらりと光るものが目に入る。
 月光を受けた刃が信長に伸びるが間一髪で制止する。濃姫を押し倒して言う。
「最初からただならぬ殺気でわかっていた。懐に小刀とは。道三に命じられたのか」
「……おまえになにがわかる」
「なに?」
「……政略の駒として嫁に出されることは運命だと思って諦めていた。
形だけの婚儀とわかっていた……だからせめて……せめて普通の嫁として夫にあたたかく迎えられ、夫婦仲睦まじく暮らす姿を想像しては、ありもしない夢を見ていた。将来を誓った人に別れを告げ、必死に泣くのをこらえてここまで来た。友を捨て、兄弟たちから離れ、愛した人を諦めて必死にここまで来た。なのにおまえは、その夢をだいなしにしたんだ……。誰にもわかってもらおうなんて、ましてやおまえなんかにわかってもらおうなんて思っていない……。この刀は、自分らしく命を絶てる、わたしの最後の希望なんだ……。言いたいことは全部言った。手を放せ。もう、夢なんて……見たくはない」
 涙ぐんだその言葉が信長にはとても重たかった。鶴姫を失った悲しみのほとんどを残したままそう言われ、返す気力も言葉もなかった。小刀を奪い取り、必死に一言返す。
「ならば、帰してやる。そうしてやることしかできない」
「今度は帰れだと……? 本当に……自分勝手で、人の心をどこまでも惨めにする勝手なやつだ……!」
 濃姫は泣きだしてしまった。信長はどうしたらいいかわからなかった。濃姫に蒲団をかけてやると、小刀を持って部屋を出ていった。
 気持ちを落ちつかせるため、信長は城内を一周しながら濃姫を思いだす。
 まだ13の女性が政略結婚の駒として使われるのはこの乱世では普通のこと。だが、その者たちがどれだけの覚悟で嫁いできているかを考えたことはなかった。鶴姫の件があったとはいえ、初めての婚儀をだいなしにしてしまった。帰してやるとの言葉も間違っていたかもしれないと自分を責める。
濃姫が心配になり、急ぎ部屋に戻ったが濃姫は眠っていた。せめて一晩だけでも夫婦としてすごそうと思い、濃姫に身をよせて眠りについた。

 翌朝、目を覚ました信長は蒲団を見るが、濃姫の姿はなかった。その目に、快晴を知らせる光が刺さる。
 いつもと違う光だった。その光に導かれ、障子を開けた。目に入ったのは、庭で薙刀を振っている濃姫だった。想像もしてなかった光景に呆然とする。
「帰蝶? いったい、なにを」
「見てわからないか。稽古だ。薙刀は毎日稽古していたから自信がある」
 濃姫は手を止めて言う。
「鶴姫のこと、信秀様と、政秀殿から聞いた」
 互いにうつむいて、先に顔を上げたのは濃姫だった。
「おまえが天下を取ると本気で言うのなら、わたしはそれを手伝うことに決めた。おまえが命をかけて変えたいと願うこの世界がどう変わっていくのか、わたしはおまえの正室であることを誇りに思いながら、おまえの横で見ていたい。もう一度だけ夢を見ようと思う。だから、ここでおまえの妻として暮らす。帰蝶ではなく、濃姫として」
 そう言って濃姫は信長のそばに来て手を差しだした。それを信長は強く引き寄せ、濃姫を抱きしめた。濃姫の言葉に、ただただ涙しながら。こうして生涯最大の盟友を得た信長は、天下への第1歩を踏み出したのである。

あとがき

信長の正室として嫁いできた濃姫。
その実像は、500年近くたったいまでも、多くの謎に包まれたまま。
嫁いできたあと、濃姫は突如として歴史の表舞台から姿を消したのである。
濃姫がどうなったのかを確実に知る者は存在しない。
あの信長の正室でありながら、そのほとんどが謎に包まれている濃姫。
現代の多くの人の想像力を掻き立てる、戦国最大の謎である。
信長とのあいだには、子供がいなかったというのが通説。
暗殺された、道三死後に美濃に返された、など様々な説あり。
また、関ヶ原の戦いの数年後まで生きていた、
江戸初期まで生きていたとも言われ、
信長とのあいだに、実は娘がいた、とも言われている。
謎に包まれながらも、1つだけ思えることがある。
従兄妹の可能性がある明智光秀と仲睦まじかったとされる濃姫は、
まむしと呼ばれた道三の娘として大きなプライドを持っていたはずである。
光秀と別れ、悲しみながらも、自分の運命から目を背けようとは
決してしなかったのではないだろうか。
実は平和主義者であり、心優しき男だったとも言われる信長が、
そんなひたむきに生きる濃姫をないがしろにするようなことは決してしなかったはずだ。
濃姫はなぜか表舞台から姿を消したものの、
陰で懸命に信長のために躍動していたのではないだろうか。

戦国長編小説・蝶や花や 第1話『吉法師、天下を夢見る瞬間(とき)』

このふたりの恋のように、この先登場するいくつもの恋は、水辺で展開されるものが非常に多くなります。ifの恋、望月千代女と服部半蔵、森蘭丸と出雲阿国などがそうです。登場人物は多いですが、脇役ひとりひとりにいたるまで、決して手を抜くことなく描き切ってゆきます。

戦国長編小説・蝶や花や 第1話『吉法師、天下を夢見る瞬間(とき)』

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更新日
登録日
2016-10-19

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  1. 第1幕『幼き日の決意』
  2. 第2幕『鶴のために』
  3. 第3幕『帰蝶ではなく濃姫として』