シャワーの後の日課である缶ビールを片手にTVを眺めていると電話が鳴った。僕の携帯電話はよく鳴るけれど、家の電話が鳴る事はほとんどない。
何だ?と電話に出ると、母親だった。
僕が学生の頃に付き合っていた彼女から手紙が届いたから、明日仕事場へ持ってきてくれるとの事だった。
彼女はよくうちに遊びに来ていたし母親と親しくなると、母親宛にも年賀状を書いてくれていた。それで、母親も名前を憶えていたのだろう。
大学2年の夏前から僕たちは自然と一緒にいる事が多くなり、いつの間にか所謂「彼と彼女」になっていた。
しかし、大学を卒業し毎年欠かさず届いていた彼女からのクリスマスカードを社会人1年目に僕は手にする事はなかった。
大分前に結婚したと、学生時代の友人たちと飲みに行った時に彼女の話は聞いていた。その話を聞いた当時、既に僕の中で彼女の事はきちんと消化されていたし、
僕は僕で彼女と呼んで差し支えのない存在の女の子もいたから、幸せでいてくれたらいいなと心から思った。
そんな彼女が今頃どうしたのだろう。僕たちが知らない同士になって、もう9年が経とうとしているのに。
元気かな?僕の実家の住所がアドレス帳に残っていたんだ。僕なんか、手帳を新しくした時にためらわず彼女の名前を省いてしまったのに。
僕は彼女との楽しかった頃の事を思い出していた。
母親が届けてくれた彼女からの手紙は柔らかい白色の封筒だった。それは彼女が昔、一番好きだと言っていた色だ。そして、宛名の字は相変わらず、整ったキレイな字だった。
彼女からの手紙がどうしても気になってしまい、仕事も半ば上の空だったような気がする。でも、いざ仕事が終わり部屋に戻っているのに僕はまだ封を開けていない。
どうしてなのだろう。
自分でも気が付いていなかっただけで、彼女の存在が今でも僕の中で残っていたのだろうか?
それとも、彼女の事を思い出した事でまた昔のような気持ちが湧いてきたのだろうか?
僕は軽く溜息をつき、封を開けた。封筒と同じ色の便せんに並ぶ彼女の字を見ると、改めて懐かしさがこみ上げてきた。
手紙の内容は、突然手紙を書いた事への謝罪、近況報告、そして折り入って相談というかお願いしたい事があるので、なるべく早く電話をしてほしいというものだった。
相談? お願い?・・・・僕に?
手紙の内容に何か期待をしていた訳ではないけれど、相談事だなんて本当に予想外の事だった。
時計を見ると、10時15分になろうとしていた。僕は受話器を左手に持ち、手紙の最後の行に書いてある彼女の現在の自宅の番号をプッシュした。
呼び出しのコール音だけが繰り返される。やはり、こんな時間に電話をしたのは失敗だったかな。それとも、番号を間違えたのだろうか。
もう受話器を戻そうかと思った時、電話が繋がった。
「はい、相沢でございます」
「え?!あれ・・・・」
「もしもし?」
「夜分に申し訳ありません。番号を間違えてしまったようで」
「享?」
「え?」
「私。美沙よ。もしかして、渡辺で手紙出しちゃった?」
「どうも、そうみたいだね」
「カッコ旧姓渡辺って書くつもりだったのに。携帯の方に連絡が来るのかと思ってた」
「いや、自宅の番号しか書いてなかったよ」
「本当に?まったく、私って」
「しっかり者なのに、必ずどこか抜けてたよね。昔から」
懐かしい声。気安い会話。あの頃は、毎日がこんな感じだった。
「随分、出世したね」
「ん?何が?」
「渡辺さんから、相沢さんだよ。学籍番号が一番最後から、最初になったわけだから」
「そっか。そう言われればそうね。相沢くんは、どうしてるんだろう?」
「もうすぐ子供が生まれるよ。今でも、時々飲みに行くし」
「享は?」
「僕?結婚はもう少し先でいいよ。それに今は彼女もいないし」
僕たちは9年のブランクなどなかったように話していた。
「で、相談って何?」
「うん・・・・実はね・・・・」
彼女の声のトーンが変わった。
「6歳になる男の子がいるって手紙に書いたでしょ。4,5日面倒をみてほしいの・・・・」
「え?!僕が?!」
「あまりにも唐突で、図々しいお願いだっていう事はわかってるの・・・・ただ、少し事情があって・・・・」
僕は驚くしかなかった。手紙には、半年ほど前にご主人を交通事故で亡くし、今は6歳になる男の子と白い犬と3人で暮らしていると書いてあったけれど。
「事情って?」
「できれば、会って話したいの。その時にあの子にも会って、判断してもらえればと思うの。・・・・ただ、4,5日も子供の面倒を見るなんて絶対に無理というなら、
今断ってくれてかまわないわ」
「自信がないな」
「仕事でね、どうしても家を空けなければならないの。一緒に連れて行くつもりだったのだけれど、どうしても行かないって言い張って。行かないなら、当然実家に預けるつもりだったのに
1人で留守番するって譲らないの。私の両親と仲が悪いわけではないし、前はよく行きたがってたのに。どうしても家にいるってきかないから、母に来てもらおうかと思ったけどタイミングの悪い事に
入院しちゃって。彼の実家にも行かないって言うし。初めは、仕事をキャンセルしようかと思ったのだけれど・・・・」
「今、何の仕事をしてるの?」
「メインは写真かな。自分の撮った写真に言葉を添えてって。そういう本ってよくあるでしょ?」
「そうなんだ?すごいね。君にそんな才能があったなんて、知らなかったよ」
「運がよかっただけよ。才能なんてないわ。今回は次の本の撮影なのね。1年くらい前から決まっていた事で。本当は春と夏の間に撮る話になっていたけれどあの子がいるから、無理を言って夏休みまで
延期してもらったの。だから、キャンセルしようにもできなくて・・・・」
彼女は、小さく溜息をついた。
「どうしたらいいんだろうって、頭を抱えてた時ふとあなたの事を思い出したの。あなただったら、あの子と仲良くやってくれるんじゃないかって。・・・・でも、あれから9年も経ってるし、
結婚して奥さんや子供がいてもおかしくないし・・・・家を空けるのが1,2日だったら頼める人はいたけど、4,5日ともなると・・・・」
「でも、どうして僕に?」
「私にもわからない。あなたの住所は手帳に残っているけれど、正直言って、その時まであなたの事を忘れていたくらいだもの」
「フシギだね」
「そうね。今、あなたがどこでどんな生活をしているか知らないし、もしかしたらあの住所ももう別の人のものになってるかもしれないって思ったけど、手紙を書いたの。電話をする勇気がなくて。
無事、手紙が届いてもあなたから連絡が来る保証なんて何もなかったけど・・・・」
「今は家を出て、1人で生活してる。母さん、君の名前を憶えていたよ」
「そうだったの?お母様、お元気?」
「父さんも母さんも元気だよ。姉さんは結婚して、母親になったよ」
「それは、なによりね」
僕たちは互いに黙ってしまった。
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