【短編小説】

こ ね こ の き も ち



 桜の樹の下には死体がある。そんな根も葉もない言葉を聞いて育ったせいか、桜の木を見るたびに花ではなく根本に目を向けてしまう。死体が見たいという特殊な思考をもっているわけではないが、無意識のうちに物騒なものを探してしまうのだ。
 おそらくそういったものに興味が傾く年頃なのだろう。期待しているわけではないが「もしかしたら」という思いが心のどこかにあるのかもしれない。

 そんな考えで桜の樹の下を覗いていたものだから、最初ダンボールを見つけたとき「死体が入っているのか?」と思わず邪推してしまった。
 桜の樹の下にいたのは死体ではなく、一匹の捨て猫だった。もちろん生きている。
 黒い毛並みと金色の瞳の黒猫だ。頼りない体つきは子どものようだった。ダンボールの中で丸まっているその子猫は、か細い声で鳴いていた。通りかかっただけでは聞こえなかったかもしれない。たまたま死体を探していたから猫を見つけた。

 ぽつ、ぽつ、と雨が降り出した。
 午前中は青空だったのに、夕暮れ時の空はすっかり雲に覆われている。
 カバンの中から折り畳み傘を引っ張りだす。その間にも子猫は小さく鳴いている。

 さて、どうしたものか。
 少年――拓夢は猫を睨みながら考える。

 ここに一匹置いて帰るという選択肢は無情にも思えるが、だからといって家へ連れて帰ると猫アレルギーの兄に殺されてしまう。飼い主を探すという手もあるが、そもそも猫は自由に生きる生き物だ。人間の勝手で捨てられて、また人間の手に渡すというのも酷な話なのかもしれない。

 このまま一匹でいる方が猫にとっては幸せではないか?
 少年は考える。もし俺が猫だったら、束縛された人生ならぬ猫生よりも自由に生きる猫生を選ぶのではないか、と。
 ここで救いの手を差し伸べることは、この小さな子猫のためにならないのかもしれない。

 黒猫が視線に気づいたのか、あどけない顔を拓夢に向ける。
 金色の瞳が何を言いたいのかは分からないが、「強く生きろよ」と心から思った。
 雨足は次第に強くなってきている。
 せめて猫がこの雨で病気になってしまわないようにと、さしていた傘をダンボールの上にかぶせた。

「すまんな。俺にはこれくらいのことしかしてやれない」

 黒猫がみゃあと鳴く。捨て置くようで心苦しいが、拓夢は再び桜の道を歩き出した。

 ここは公園の一角にあるウォーキングコースだ。駅に続く裏道でもある。裏道とはいえ駅に通じているので人通りがないわけじゃない。実際、拓夢の背後には若い女性と小さな子どもがいた。保育園帰りの親子だ。

「あ、ママ! あそこに猫がいるよ」
「本当ね。捨て猫かしら?」

 帰ろうとしていた拓夢の足が止まる。

「この猫、かわいそうだよ! 雨に濡れちゃう」
「そうねぇ。あら、体が震えているわ。寒いのかしら?」
「ねぇ、おうちに連れて帰ってあげようよ。かわいそうだもん」
「ダメよ。うちじゃ猫は飼えません」
「でもこのままじゃ雨に濡れちゃうよ!」
「……それもそうね。このまま置き去りにして帰るのも可哀想だし、一日だけ連れて帰ってあげましょうか」
「うん!」

 雨は無情にも強くなる。石像のように立ち尽くす拓夢の側を、子猫を抱えた子どもとその母親が通り過ぎていった。
 すれ違いざまに子猫の鳴き声が聞こえた。助けを求めているのか、喜んでいるのか分からない。
 拓夢は雨に打たれつつ、親子の背中を見送った

◆ ◆ ◆

 桜の木が赤いのは、地面に埋まっている死人の血を吸っているからだと聞いたことがある。それが本当なら多くの桜は人の血をすすったことがあるのかもしれない。
 血のせいで赤く色づいているのであれば、桜の花びらからは鉄の匂いがするのだろうか。そんなことはありえないと頭では分かっているが、そういう桜の木もあるかもしれないという可能性は捨てきれない。

 別にそうであってほしいと願っているわけではないが、そうだったら面白いのに。
 そんな考えで花びらを眺めていたものだから、最初他の木よりも赤く色づいている桜を見つけたとき「これは本当に血を吸っているのでは?」と思わず邪推してしまった。
 血を吸っているのなら、桜の木下には一体何があるのか――ダンボールがあった。
 血のことばかり考えていたので、ダンボールの中にもしかしたら死体が入っているかもしれないと身構えて覗き込むと、中から子猫が見つめ返してきた。ダンボールの中にいたのは、生きた子猫だった。

 どうやら子猫は捨てられたらしい。ダンボールにはご丁寧に「拾ってください」と油性マジックで書かれている。拾ってくださいというのは猫の気持ちか捨て主の願いか、言うまでもなく捨て主の言葉なので無視するに限る。
 そもそも「拾ってください」という言葉自体「拾えよ」と命令されているかのような気分になるので、あまり好きじゃない。
 小さな声で子猫が鳴く。何を言っているのか分からない。

「めんどくせぇなぁ」

 少年――陽介は鳥の巣頭をかき乱す。その間にも子猫はか細く鳴き続けるのだが「うっせぇ」の一言で一蹴する。
 子猫は生まれて間もないのか弱々しい。一人で生きていけるほど強くないだろうなと直感的に思う。
 かといって猫を連れて帰ると猫アレルギーの姉に殺されてしまう。飼い主を探すというベタな方法もあるが、会って間もない猫のためにそこまでする気にはなれない。

「あー、でもせめて飯くらいはおごってやるよ」

 カバンからパンの余りを引っ張りだし、子猫に差し出す。
 子猫はお腹が空いていたのか、あっという間にパンを食べ尽くしてしまった。

「悪ぃな。俺にはこれくらいのことしかしてやれねーよ」

 小さくてふわふわしている頭を一度撫でてから桜の道を歩き出す。
 この通りは駅に続く道なので人通りが少ないわけじゃない。子猫は見えづらい位置に捨てられていたが、決して見えないわけじゃない。きっと猫を気に入る誰かが見つけて連れて帰ってくれるだろう。

 しかし、もし誰も子猫を見つけることができずあそこにずっと放置され続けたら、いずれ桜の養分になるのかもしれない。
 ダンボールの中で一人寂しく死んでいく子猫の姿が脳裏を過ぎる。
 いや、それはないなと思いつつもやっぱり気になる。面倒くさいので飼い主探しはしたくないが、だからといって死体を見ることになるのも寝覚めが悪い。

 迷っている間に雨が降りだした。そういや、今日は午後から雨が降ると誰かが言っていた。
 本当にめんどくせぇなと毒づいていると、子どもの声が聞こえてきた。思考に耽っていた陽介がはっと顔を上げるほど、大きな声だった。

「あ、ママ! あそこに猫がいるよ」

 どうやら子猫は親子に見つけられたらしい。子どもが母親を説得し、猫を抱えて帰っていく。
 親子が横を通り過ぎるとき、ニャーと一言聞こえたけど、言葉の意味は分からなかった。当たり前だ。猫語など理解できるわけがない。

 陽介は黙ったまま、親子の背中を見送った。

◆ ◆ ◆

 陽介が桜の木の裏側から歩道へと足を踏み出すと、ちょうど体をひるがえした拓夢と目が合った。

「……陽介、お前、そこで何をしているんだ」
「お前こそ、何やってんだよ」

 お互いがお互いの姿を認識した途端、一瞬、時が止まった。

「俺は、その……学校の帰りだが、お前は桜の木の裏に隠れて何をしていたんだ?」
「どうだっていいだろ。帰るのがめんどくさくなって一休みしてたんだよ。つーか、その後ろにある傘、お前のだろ。落としてるぞ」
「ああ、本当だ。いつの間に落としたんだろうな。気づかなかった」

 桜の樹の下に落ちている黒い傘を拓夢が拾う。
 その姿を眺めながら、陽介はこっそり空になったパンの袋をズボンのポケットに突っ込む。

「お前、傘はないのか?」
「出すのがめんどくせぇだけだ」
「そうか」

 陽介の返事を聞いて何を思ったのか、拓夢は傘を折りたたみ、カバンの中に入れてしまった。

「なんで片付けるんだよ」
「今は濡れたい気分なんだ」
「……は?」
「何でもない」

 雨の重みで桜が散っていく。
 濡れた花びらを踏みしめながら、少年たちは駅へと続く道を無言で歩き始めた。


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