「待ち合わせ」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



 振り返れば、歩いてきた長い坂道があった。
 正面に視線を戻せば、これから歩くさらに長い坂道がある。
 ゆるやかにカーブを描きながら、坂道は山奥へと続いている。右も左も木々が生い茂っており、足元がアスファルトでなければ、自分は遭難しているのではと考えてしまうだろう。
「あっついなぁ……」
 駅から歩き始めて一時間。涼太の思考が口からこぼれ落ちた。
 バスに乗り遅れさえしなければ、今頃は扇風機を前にスイカでも食べているはずだったのだ。自分の確認ミスとはいえ、誰かに怒りをぶつけたくなってしまう。
 一日に二本しかないバス。次の便まで六時間待つという案を、涼太は二秒で棄却した。その結果、涼太は日本の夏を満喫するはめになってしまった。
「これだから夏はキライだ」
 つぶやく声はセミの大合唱にかき消された。
 暑さが苦手な涼太は、夏になるたびにこのセリフを繰り返す。そして、冬になれば同様に寒さへの愚痴をこぼす。
 八月の太陽は容赦なくすべてを焦がし、熱せられた地面からは陽炎が立ち上っていた。周囲の雑木林のせいで、風はまったく感じられない。
「死ぬ……。喉、渇いた……」
 Tシャツはすでに限界まで汗を吸い込んで、べったりと背中に張り付いている。それが体の動きを妨害し、ただでさえ重い足取りがさらに鈍くなってしまう。
 今年は荷物が少なくて済むことが、せめてもの救いだった。昔のようにリュックをいっぱいにしていたら、きっと途中で動けなくなっていただろう。
 白みかかる意識の中、涼太はただひたすらに足を前へと進めていった。
 なんでこんなことをしているんだろう。
 頭の隅で、そんな疑問が浮かんだ。
「そんなの決まってる。僕はこれから……」
 これから、何だったっけ。
 大事な用事があったはずなのに、うまく思い出せない。
 困った。それはすごく困る。用事を忘れたりすると、渚はすごく怒る。
「あ、そっか。渚のところに向かってるんだっけ」
 目を閉じると、従妹である一つ年下の少女が浮かんだ。
 渚は涼太にとって一番大切な友達だった。涼太を年上だと思っていないふしはあるが、それだけ親しみを持っているのだと思えば大して気にはならない。
 渚はよく笑い、よく喋る女の子だった。
 だが、まぶたの裏に映る少女の顔は、涙に濡れて翳っていた。
 そんな顔をしている渚は、あまり見たくない。しっかりと目を見開き、思考をクリアにする。
「早く行かなくちゃ」
 目的を再確認すると、長い坂道も、重い両足も、少しだけ楽になった気がした。


 渚とは、一年のうちの一ヶ月分ほどしか会えなかった。
 小学生のころは、夏休みになると涼太はいつも祖母の家に泊まりに行っていた。祖母は叔父夫婦と同居しているため、もちろんそこには渚も住んでいる。
 渚は涼太がやってくるたびに、満面の笑顔で涼太を迎えてくれた。咲き誇る向日葵のような、夏らしい笑顔だ。
 涼太も渚に会えるのが毎年楽しみであった。だが、一つだけ困ったこともある。
 朝は必ず七時に起こされるのだ。夜更かしもさせてくれないから寝不足にはならないが、休みは昼まで寝るのが好きな涼太には少しだけ不満だった。
 だが、今になってみればその理由もわかる。祖母も両親も畑仕事に行ってしまうため、渚は一人で寂しかったのだ。
 昔ながらの小さな山奥の村。ただでさえ人口が少ないのに、渚と同年代の子供に絞っては片手で数えられる程度になってしまう。
 そんな渚にとって、涼太は気兼ねなく一緒にいられる貴重な相手だったのだ。
 渚は滅多に外へ出たがらないので、もっぱら室内で遊ぶことが多かったが、楽しければ何でもいい涼太にはそれはたいした問題ではなかった。
 夏休みの間と、正月の一週間。それが渚と涼太をつなぐ時間のすべてだったが、二人にとっては一番の友達と会うことができる、何より大切な一時だった。


「休憩ターイム」
 道程を半分以上消化したころ、誰も使ってなさそうな小さな公園を見つけた。
 公園といっても、公共物は公衆トイレと水道だけ。あとは足元にひろがる芝生の絨毯と一本の大きな木があるくらいだ。
 その木陰に入り、倒れるように横になった。
 大きく手を広げ仰向けに寝転がると、緑が映える木々と限りなく深い青空が目の前に広がる。
 痛いほど照りつけていた日光は木の葉にさえぎられ、ときおり吹く風が疲れきった体をやさしく癒してくれる。
 このまま目を閉じれば、きっと心地よく眠れるだろう。この大きなゆりかごは、決して涼太を拒まない。
 涼太はゆっくりと目を閉じて、そして大きく見開いた。
「んー。……よしっ!」
 大きく伸びをして体をほぐし、勢いよく起き上がる。
「もったいないけど、そろそろ行くかな」
 時間にしてわずか五分程度の休息。それでも、涼太のやる気を呼び起こすには十分なものだった。
 服についた雑草を払い落とし、手提げ袋を拾い上げる。
 せっかくなので喉を潤していこうと、公園の片隅にあった水のみ場へと足を運んだ。
 蛇口から出てきたのは水とお湯の中間くらいだった。それでも、今の涼太にはありがたいものではあったが。
 まるで体がスポンジでできているかのように、涼太は水を飲み続ける。流れていった水分と同じか、それ以上の量を体内へと流し込む。
 最後に頭に思い切り水を浴び、髪にしみこんだ熱と汗を洗い流した。
「ふぅ……。やっぱりコンビニで飲み物買っとくべきだったな」
 夏の山をなめていたときの自分を叱ってやりたくなる。初めて徒歩でこの山を登るとはいえ、ちょっと考えればどのくらい大変かなんて、すぐわかることなのだ。
「ま、いいか。過ぎたことだし」
 今のこの爽快な気分も、ある意味自分の暴挙のおかげだといえる。バスを使おうとしていたら、このちょっとした贅沢は味わえなかったのだ。
 歩道に戻ろうとしたとき、涼太は周りの木々の密度が薄まっていることに気づいた。自分がここに来るまでに乗ってきた電車や、駅前のコンビニが小さく見える。
 一度強い風が吹いた。開けた景色の向こう側、駅よりももっと遠いところに広がる、海からの風だった。
 ここまで届くはずが無いのに、潮の香りを確かに感じた。
「今年も海はいつも通りか」
 山から見下ろした海の色は、空の蒼さによく似ていた。


 毎年恒例の行事といえば、村祭りと花火大会、そして海水浴だった。
 夏休みの宿題を持ってくることを忘れても、水着や浜辺で遊ぶ道具を忘れたことは一度もない。それくらい涼太は海で泳ぐことが好きだった。夏に祖母の家に行く時は必ず海に行くので、毎年涼太の荷物はリュックをいっぱいにしていた。
 午前のバスでふもとまで降りて、午後のバスまで遊びとおす。
 夏の日差しの下では、ただ海に入っているだけでも不思議と楽しかった。あまりに楽しかったので、うっかり沖まで流された経験もあった。
 もちろん渚も一緒なのだが、渚は泳ぐよりもパラソルの下で涼太を眺めていることのほうが多かった。
 家に帰るころには涼太は疲れきっているのだが、大人しくしていた渚は元気なまま。室内でできる遊びに、涼太はたっぷりとつき合わされるのだった。
 二人のそんなやりとりは、涼太が中学に入っても続いていた。


 ようやく無愛想な坂道を抜け、民家をいくつか見かけるようになった。ここまでくれば、もう到着したも同然だ。祖母の家までは十分もかからない。
 電話では十一時には着くと言っておいたが、すでに二時を回っている。ずっと心配しているだろうし、早く顔を見せて安心させないといけない。
 急ぎ足で祖母の家に向かう。その途中、青果店で渚へのおみやげとなる果物を買うのは忘れない。
 目的地のすぐそばで売っているものをおみやげにするのはどうかと思うのだが、渚は慣れないものを食べるとすぐ体調を崩す体質なので、気がつけばこれが当たり前となっていた。
 自分用に買ったリンゴをかじりつつ最後の角を曲がると、ひときわ大きな日本家屋が目に飛び込んでくる。
 また、ここに来たんだ。
 半年振りに見た祖母の家は、何も変わっていなかった。


 正月にこの村に来たとき、渚はいつも寝込んでいた。
 布団の中で小さくなって咳き込む渚を見ていると、夏と冬では別の人物に会っているのではないかと思うほどに、弱々しい姿だった。
 夏なら一緒に大騒ぎしているのだが、冬の渚はしおらしくどこか儚い。そのせいか、涼太はいつも優しい気持ちになって新年を迎えていた。
 年が明け三が日が過ぎたころに、涼太は自分の家へと帰る。
 そのときだけは、渚も布団から抜け出し、涼太を見送るのだった。そして、そのときに二人は約束を交わす。
 必ず、また会いに来るから。それまでちょっと待ってて。
 涙を溜めた渚の瞳は、このときにいつも限界を超えるのだった。
 夏に笑って冬に泣く。
 それが、涼太にとっての渚という少女だった。
 そして去年、涼太が中学三年生の夏。
 上位の学校を目指したために受験勉強に忙しく、約束を守れなくなってしまった。
 夏休みに入る前にそのことを伝えると、電話口で散々に怒られた。平身低頭謝って、許してもらえるのに三時間かかったときのことは、一年経った今も克明に覚えていた。
 冬も来なかったら承知しないと渚は言い、涼太は必ず行くと答えた。
 渚の訃報は涼太の元へと届いたのは、その電話から半年後。クリスマスの晩のことだった。


 線香に火をつけ、りんを打って手を合わせた。途中で買った果物はすでに仏前に供えてある。
 遺影の中の少女は、楽しそうに笑っていた。もともと体が弱く、こんなふうに元気でいるのは涼太がいるときだけだったと、葬儀が終わったあと叔母から聞いた。
 後悔はある。だが、それを表に出す気はない。
 渚だって涼太の前では明るく生きていたのだ。ならば、自分だってそれに負けるわけにはいかない。
「それにまあ、約束破るつもりもないし」
 遺影に向かって声をかける。先ほどまでそばにいた叔母は、気を利かせたのか席を外していた。
「ちょっと遅くなると思うけど、僕もいつかそっちに行くから」
 それは近い未来かもしれないし、何十年も先のことかもしれない。
 いつになるかはわからないが、それでも、約束を必ず果たされるのだ。
 別れ際にいつも泣いていた少女を、もう一度笑顔にしてあげなければいけない。
「だから、それまでちょっと待ってて」
 もう一度、手を合わせて目を閉じる。
 少しだけ、渚が笑ったような気がした。




―了―