「八月の煮汁・前編」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



序章

 今この瞬間ほど、一葉は自分の不運を呪ったことはなかった。
「一葉ちゃん、わかってるよね?」
 質問という形式でカモフラージュされた、純然たる脅迫が一葉に向けられる。
 その言葉の主は、一葉とテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。明かりがないため確認は出来ないが、きっとその目は輝いているのだろう。
 左右から注がれるはず視線も、何かを期待しているのが嫌でもわかってしまう。
 暗闇で見えないはずなのに、一葉の狼狽は正しく理解されていた。
 もはや退くことは不可能。重苦しい重圧が一葉にのしかかる。
 やらなければいけないことはわかっているが、だからといってそう簡単に覚悟を決められるわけでもない。
 ……どうしよう。
 やはりその場のノリで軽々しく誘いに乗るべきではなかった。
 絶体絶命という言葉の意味を、一葉は今、身をもって理解していた。
 思えば、今日は朝からついてなかった。
 テレビの占いは最悪、靴紐は両足とも切れる、黒猫には横切られるし、お気に入りのカップが勝手に割れてしまった。
 これだけ不運が重なったのだ。この後にはとびっきりの幸福が待ち構えてるに違いない。
 そんなことを考えてしまった自分自身を、甘ったれるなと叱り飛ばしたい気持ちに駆られる。
 小さな不幸の後には大きな不幸が、その後にはさらに大きな不幸が待ち構えているのだ。
 例えば、こうして一葉の箸が摘み上げてしまったモノのように。
「さぁ、パクっといっちゃって」
 これが最後通達。
 もはや覚悟は決まった。
「一番、小野一葉。いきます!」
 一思いに口に運ぶ。
「だ、大丈夫か?」
 この部屋で唯一の男が、緊張気味に声をかける。
「――――あれ?」
 少し塩辛いが、決して食べれない味ではない。予想外だが、まさに僥倖だった。
 そんな感想を心の中で呟きつつ、咀嚼する。
 ―――瞬間、世界が止まった。
 舌に突き刺さる刺激は間違いなく毒性。噛みしめたことによって溢れ出る汁気は、暴力的に味覚の破壊を試みる。
 危険を察知した脊髄は脳を通すことなく、全細胞、全神経に拒絶信号を命じる。
 味という概念では計れない恐怖に、一葉の身体は立ち向かうことを拒否したのだ。
「…………」
 だが、唯一彼女の意地だけが、逃げることを是としなかった。
 自動的に動く身体はコップをつかみ、その中身を一息に飲み干す。
 一切の無駄が排除された動作。一瞬の迷いすら見せず、邪魔な本能ごと胃の奥へと流し込んだ。
「すい、カ? スイカ、かぁ……」
 地獄とは、知覚することが出来て初めて地獄となりえる。
 だからこそ、この場でそれを確信したのは一葉だけだろう。
 ここが、紛れもない地獄だということに。
「絵里先輩……」
「な、なに?」
 そして、他の三人もすぐにそれを知ることになる。
「次、いきましょう……」
 生気の感じられない声。一葉自身ですら、その声にうすら寒いものを感じてしまう。
 だが、すでにゲームは始まっているのだ。ならば、最後までやり続けるしか道はない。
 参加者は四人。暗闇にて、鍋を囲む者たち。
 旬の具材がふんだんに入ったその鍋は、まさに八月という季節そのものだった。


一章


 夏休みもすでに半ばを過ぎたが、日差しの厳しさと暑さは相変わらず続いていた。
 窓を全開にしたところで、運ばれてくる風すらも熱を持っているだから、涼を取るには全然向いていない。
「クーラー、欲しいな」
 写真部の部室内。うちわを片手に、一葉は雲ひとつない空を眺めていた。
 休みが長く続けば、何の予定もない日だってある。
 そこで、暇つぶしに学校に来たものの、居たのは後輩が一人だけ。
 その後輩も暗室でフィルムの現像をしているため、一葉は暇をもてあましていた。
 なんとなく校庭に目をやると、野球部がこの炎天下でも真面目に練習に取り組んでいた。
 聞いたところによると、夏の大会は一回戦負けだったようで、来年こそはと一、二年生がやる気になっているらしい。
 ただ、そのやる気が来年どころか、秋まですら続かないからこそ、野球部がいつまでたっても弱小たる所以だろう。
「うわぁ、まぶしいですねぇ」
 なんだか眠そうな、間延びした声が一葉の耳に届いた。
「紀子。ちゃんと薬品は片付けた?」
 一葉が確認すると、写真部の後輩、川西紀子は目を細めながら頷いた。
 暗室で作業していたため、部室の明かりですら、かなりのまぶしさに感じているようだ。
 邪魔にならないよう後ろでまとめていた髪をほどくと、いつもどおりのストレートに戻った。
「もちろんですよ。同じミスを四回もするほど、わたしもお馬鹿さんじゃありません」
 つまり、同じミスをすでに三回しているということだ。
 一葉としては、何か問題があったときに部長である自分が怒られるので、紀子の言葉を鵜呑みには出来ない。
「念のため、と」
 暗室の中を確認する。
 薬品類を点検していくが、どれもきちんと片付けられていた。
 しまい忘れの多い紀子だが、ちゃんと覚えていたときの整理のマメさは、一葉も信頼していた。
「うん、大丈夫みたいね」
 中の様子に一安心し、一葉は暗室のドアを閉めた。
「ヒマですねぇ」
 紀子が紅茶を飲みながら、独り言のように呟く。
「そうね……」
 たまたま置いてあった雑誌を読みながら、一葉もやる気なく返事をする。
 先ほどまでは休みの間のことなどが話題に上ったが、二人だけではそれほど長く会話が続かなかった。
 特に話すこともなく、かといって帰ってもすることがない。
 この部室の中だけ、時間がゆっくり流れているような感覚に陥る。外から聞こえる野球部の声は、まるで別世界の出来事のようだ。
 ……世の中は今日も平和、か。
 読み終えた雑誌を脇にどけて、窓の外へと目を向ける。
 いかにも夏らしい、青く澄み切った空を見ていると、たまにはこんな一日があってもいいのではないかと思う。
 老人のようにくつろぐ二人。
「ちゃーす。みんな元気ー?」
 その穏やかな空気も一人の乱入者によって、一変することとなった。
「絵里先輩?」
「お、一葉ちゃんだ。暇なんで遊びに来たよ」
 現れた女性は三月に卒業したばかりの、元写真部部員の絵里だった。一葉とは約半年ぶりの再開となるが、その陽気さは全く変わりがなかった。
 大学には行かず、フリーターとして気ままに暮らしているという噂だが、どうやら間違いないようだ。
 一葉に手を振って挨拶した後、絵里は紀子に向き直る。
「こっちの子は一年生か。私はここの卒業生の絵里、あなたの大先輩ってワケ」
 よろしく、と右手を差し出す。
「初めまして。川西紀子って言います」
 その手をとり、同じように自己紹介を交わす紀子。
 何気ない紀子のその言葉に、絵里が眉をひそめた。
「川西って……ひょっとして、妹さん?」
「ハイ。川西康介はお兄ちゃんですよ」
 康介は一葉と同じ、写真部所属の二年生だ。面倒なことは一葉に任せて、本人は気楽に部活に参加したりサボったりしている。
 同じように幽霊部員が一年に二人、三年に一人いるのだが、滅多に顔を出さないので事実上の最上級生である一葉が部長を務めることになった。
 つまり、現在の写真部は実質、一葉と紀子の二人で構成されているのだ。
 普通なら廃部になりそうな状況だが、顧問がそもそも適当な人物なので、今のところ問題視はされていない。
「さて、今日は二人しかいないみたいだけど、まあいいか」
 そう言って絵里は持参したビニール袋をテーブルの上に置いた。その中にはお菓子が色々と入っている。
 その中からいくつかを取り出して、二人からも取りやすい位置に広げる。
「バイトがしばらく休みで暇になっちゃって、話し相手、付き合って頂戴」
「あ、それじゃあお茶入れなおしますね」
 絵里の登場により、一度は四散した穏やかな空気が、甘い匂いとともに再び戻ってきた。
「ってなわけで、瑞希はタカとデート三昧でかまってくれないわけなのよ」
「月島センパイ、最近こっちにも顔出しませんしねぇ」
「バイトで忙しいって言ってたけど、そういうことだったのか。なかなかやるなぁ」
 女三人寄ればかしましい、古人が残したこの言葉は真理であることが、今この場にて証明されていた。
 ちょっとした言葉の端々からも新しい話題を見つけ、先ほどから部屋の中が静まるということがない。
 瑞希とは絵里と同い年で、卒業後は東京の大学に通うことにした、絵里の友人の名だ。絵里の話によれば、長期の休みに入り実家に戻ってきているのだが、彼氏といつも一緒で話すらロクにできないらしい。
 相手のタカこと、月島貴彦は名義上は写真部部員だが、5月の半ばごろから一葉は一度も姿を見ていない。受験生だというのにバイトに明け暮れているらしいが、詳しいことまでは一葉は知らなかった。
「まったく、私のおかげで結ばれたってのに、女の友情は儚いね」
 一葉が察するに、絵里の不機嫌の理由は友人に会えないことよりも、自分には相手が居ないことのように思えた。
 もちろん、それをわざわざ口にするほど一葉は無神経でも無謀でもない。
 残っていた紅茶を飲み干し、絵里はカップを置くと小さく息を吐き出した。
「こうして、今年も夏が終わるのかぁ」
 遠い目、というよりは目がうつろといったほうが正確だろう。開き直ったような、それでいてどこか諦めきれないような眼差しで、天井を眺めている。
 それがあまりに寂しそうなので、少しそっとしておいてあげようと、一葉は目で紀子に合図を送る。
 その視線を受け、紀子も小さくうなずき、
「ねぇ、センパイ。それじゃあ、ここで今年の思い出作りましょうよ」
 と、最高に勘違いした発言を口にした。
「ちょ、紀子!?」
 アイコンタクトが完全に失敗したことに、動揺を隠し切れない一葉。
 紀子本人は、自分の言葉の重さに気づいてないようで、ニコニコと絵里の返事を待っている。
「思い出、ね」
「…………」
 恐る恐る絵里の様子を確かめる。すると、意外なことに絵里は満更でもないようで、なにやら考え込んでいた。
 以前の絵里なら『後輩に同情されたー!』と喚き散らすのだが、不気味なほどにリアクションが薄い。
 原因として考えられるのは、おそらく何か妙なことを思いついたからだろうか。
「そうなると……以前見かけたような……」
 思案する絵里の顔には怪しげな色が見え隠れしていた。
 最悪の事態は回避できたかと、一時は安堵した一葉も、すぐにそれが間違いだと気づくことになった。
「お、あったあった。……よいしょっと」
 部室の一番奥には、他のものより大型のロッカーが一つだけある。
 いつからそれがあるのか知っているものはいないが、その中に何があるかだけは部員全員の周知の事実だった。
「ずいぶんとまぁ、色々溜め込んだもんだね」
 ロッカーの中、ガラクタの山を漁っていた絵里が何かを見つけたようだ。下のほうにあるようで、邪魔なものを押しのけて目的の物を引っ張り出した。
 手に入れたばかりのソレを、一葉たちに見えるように机の上に乗せる。
「コンロね」
「コンロですねぇ」
 絵里が見つけたのは、カセットボンベの付いた小型のコンロだった。
 試しに一葉がスイッチをひねって見たところ、問題なく正常に点火したので、ガスはまだ残っているようだ。
 こんなものが平然とロッカーに入っている事実には、初めて知ったものは誰もが呆れるのだが、結局誰も手をつけずに放置したままとなっている。
 一葉も初めはなんとかしようと試みたのだが、自転車が2台出てきたところで諦めることにした。
「それと……ハイ、これ」
 絵里はもう一つ、ロッカーから取り出したものをコンロの隣に置く。
「土鍋ね」
「土鍋ですねぇ」
 二人が口にした通り、紛れもなく土鍋だった。ずいぶん使い込まれたものらしく、ふちが欠けていたり、底が焦げ付いたりしている。だが、それがかえって温かみをかもし出す一因になっている。
「それで、これでなにするんですか?」
 一葉が率直に問う。八月の中旬という、真夏と呼ぶにふさわしい時期にはとてもではないが似つかわしくない道具が目の前に並んでいるのだ。それを疑問に思わない人間など、一葉のとなりでほわほわと笑みを浮かべている少女以外にはいないはずがない。
「ふふふっ」
 その笑い声を聞いた瞬間、一葉は背中に冷たいものが走るのを感じた。
 コンロと土鍋。その二つを机に並べて、絵里は大きく胸を張り、宣言した。
「闇鍋をしよう!」


二章

「夕焼けキレイだね」
「ああ、真っ赤だな」
 太陽はすでに地に隠れるほど低く、空は濃い茜色に染まっていた。
 自身よりも長くなった影を引きつれ、康介は妹である紀子とともに、学校へと足を進めている。
 康介の右手にはスーパーの袋が一つ。先ほど買ったばかりの食材はかなりの重量があり、少しずつ手のひらに食い込んで痛い。
 どうしてこんなものを持って学校に向かっているのかと言えば、昨夜に紀子が、
「今日部活に行ったらね、絵里センパイに会ったんだよ」
 なんて問題発言をしたのが原因だ。
 部活に行って出会う絵里といえば、あの絵里先輩以外にはありえない。
 気まぐれで行動し、面白そうなことには首を突っ込み、何よりタチが悪いのはそれに他人を巻き込むところだ。
 やっと卒業してくれたので、晴れて自由の身になったと思ったら、こんな形でまた関わることになるとは思っていなかった。
「闇鍋ってやったことないから、今から楽しみだよ」
 幸せそうな妹の声。だが、康介の心境とはまったく逆だった。
 あの先輩のことだ。絶対にまともな物を持ってくるはずがない。下手をすれば、食べ物でない可能性すらあるのだ。
 自身も危険がある以上、普通の人間なら加減というものをするだろうが、今回ばかりはそんな一般論は通用しない。
「胃薬だけで大丈夫かな……」
 できることなら参加などしたくもないが、紀子だけを危険な場所に行かせるわけにもいかない。
 絵里の性格上、途中で抜けることは許さないだろう。最悪の場合、自分が鍋を平らげる必要がある。
「ねー。もっと早く歩こうよ」
 気乗りしないためか、ずいぶんとゆっくり歩いていたようだ。
 早足で紀子に追いつき、その横に並ぶ。
 一年以上通った学校への道はすでに身体が覚えていて、足が勝手に動いているかのようにその道のりを進んでいく。
 次の角を曲がれば校門が見える。時間にすれば二分もかからない距離だ。
「あ、カラスだ」
 紀子が空を見上げる。
 つられて康介も見上げると、カラスが三羽、学校の奥にある山の方へと飛んでいくのが見える。
 その鳴き声は、康介にはまるで『引き返せ』と言っているように思えた。
「まさか、ね」
 そんなことはない、と自分に言い聞かせる。
「ほら、行くぞ」
「あ、待ってよー」
 急に早足になる康介を、紀子は慌てて追いかけていった。


「結局四人だけか、全員集めたかったんだけどな」
「思いっきり校則違反なんだし、ムチャ言わんでください」
 より雰囲気が出そうとの絵里の意見により、会場は暗室の中ということになった。
 余計なものを隣の部室に移動させると、思っていたよりも室内は広かった。
 中心に大きめのテーブルを置き、その上には鍋の乗ったコンロ。取り皿と箸は学食から拝借してきたものを使う。
 本当なら学校内で、さらには卒業生とはいえ今は学校と無関係な人間がこんな事をするなんて許されないのだが、顧問曰く、
「美味かったら私のところに持って来い。不味ければバレないようにやれ。いいな?」
 との言葉を残し去っていったのは、つい先程のことだ。
 康介が顧問に会うのは一ヶ月ぶりだったが、適当っぷりは相変わらずのようだ。今日の当直があの女性だったことは、果たして幸なのか不幸なのか。
 その傍若無人な態度は、絵里の大人版といったところ。
 あと十年もすれば、絵里も同じような人間になりそうな気がする。
「……怖いな」
 高校を卒業したらもう会う事はないだろうと思う反面、そう簡単に逃げられないという予感もあった。
 大学は地元以外のところにしよう。康介の進路はこの瞬間に決定した。
「そろそろ具材を入れましょう」
 仕切るのは唯一四人の中で料理のできる紀子。
 もっとも、これから先は料理と呼べるのかどうか怪しいのだが。
「しかしまあ、真夏に鍋囲むことになるとはな。しかも窓ないから余計暑いし」
 思い出づくりと紀子は言っていたが、絶対にいい思い出にならないことは確信できた。
「それじゃあスイッチ切り替えるから、手元に気をつけて」
 パチンと一葉が壁のスイッチを押すと、蛍光灯が消え、薄暗く赤い光に替わった。
 コンロの火も明かりになっているので普段よりは明るいが、その中途半端な明るさに康介は逆に不安に駆られてしまう。
「さて、各自持ってきた物を入れてー」
 絵里の号令で、それぞれが食材を入れ始める。
 康介は一応鍋にあうようにと、白身魚やキノコ類を買ってきてある。紀子と二人分ということで他の二人より量は少し多めだ。
 ただ、紀子は会計後にこっそり何かを買い足していた。
 絵里に影響を受けていたとしたら、絶対に無難なものではないだろう。
 そんな康介の不安もよそに、鍋はあっという間に具で一杯になった。
「あとはフタをして、ちょっと待てば食べれますよ」
 次にこのフタが開けられたとき、せめてその中身が食べ物でありますようにと、康介はただ祈るばかりだった。




後編へつづく