「三月の呪い・1」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



 それは、冬と春の間と言って、ちょうど良い日だった。
 窓際に立つとはっきりと暖かいと分かるほどで、外では咲き頃を迎えた梅の花がやや元気なさげに、校舎の影で斜めに遮られた日の光に晒されて揺れていた。体育館かどこかから、何かの歌が聞こえていた。
「………あとは、アイツだけか」
 私は一人、梅の木が林立する裏手の渡り廊下を歩きながら、頭の中で分かりきっていたことを口にした。
 手の中では古びた、長らく使い込んだ黒いシステム手帳を開いている。手帳は元々は卒業した先輩のもので、二年半前に私のものになり、そして数ヶ月前後輩に譲り渡した代物だが、今日だけ特別に借り受けたものだ。
 代々受け継がれてきたため、黒いふちは白地がむき出しになってボロボロにめくりあがり、幾度も繰られたページは手垢と張り付いた付箋で分厚さを増し、新品の二倍くらいに膨れ上がっていた。
 ただもう、記帳できるスペースは残り数ページだ。私が譲り渡した次の倉山くんがこれらのページを埋めきるのも時間の問題だろう。
 渡り廊下を渡りきると、目的の一階図書室は目前だ。校舎に入ると、午前中の湿った陽の匂いが廊下のあちこちに漂っていて、少しばかり心細くなる。
 ペラペラとページをめくって中身を確認しながら、半年振りに手に取る手帳の手触りや内容の懐かしさ、この手にあれほど馴染んでいた手帳の感触が私が受験勉強に追われている間にとっくに失われていたことに少しの寂しさを覚えた。
 もう見なくても書いてある内容は大体分かっていたのだが、正確な情報を把握しておきたかったのと、最後にこの手帳に別れを告げたいと言う未練があって、倉山くんに借りたのだ。
 それに、これから向かう相手に対しては、なんとなくこれだけは持っていかないと落ち着かなかった。
 私が図書委員として幾度となく戦いを繰り広げた相手に対する、正しい武器。
 手帳の最初に書かれたフレーズを、心の中で聖書の一節のように復唱する。
  一週間で青一本。
  青四本で黄一本。
  黄三本で赤一本。
  赤二本で、黒一本。
 それは、図書延滞者に課せられた、延滞図書に対する読書感想文と言う名の過酷な義務と、それに伴うペナルティ。
 本を借りる時に提示する学生証の右上にこのラインが刻まれた者は延滞者として、学生証が更新されるまでの年度間は図書室の利用が制限される。
 一週間の青で注意勧告。一ヶ月の黄は購入希望図書の申請不可。三ヶ月の赤で貸出冊数制限。
 ペナルティとしては最悪、累計半年の黒で残りの期間は貸出禁止と共に随伴者なしの出入り禁止となる。
 これについては厳しいと言う人も居るし、これによって差別的な扱いを受ける人もたまにいたりするが、そんなのは借りといて理由もなく返さない方が圧倒的におかしい。借りた金には利子がつくのが道理で、延滞した本には読書感想文を書くのが当校の義務だ。
 赤レベルからは教諭が出向くことになるが、基本的には管轄、取締、勧告するのも、当校の図書委員が務める義務の一つに過ぎない。
 そして、それらを余す所なく記録したものがこの通称、黒革の手帖というワケだ。実際には革でもない安物だし、中には即逮捕の脱税者の名前が並んでいるわけでもない。どこぞの松本さんが聞いたら嘆くに違いないが、その手帖は確かにだらしない延滞常連者を震え上がらせてきたのだった。
 ただ、これだけ厳しければそうそう延滞を起こす人間などおらず、私が過ごした三年の間に黒ラインが引かれたのは四回。そう、ラインを引かれたくなければちゃんとするか、そもそも借りなければいい話なのだ。
 図書室が見えてくる。
 午前中で利用客もいないだろうその入り口の前に、一人の男が珍しく詰襟の前を全てきっちりと締めて、壁にもたれかかっていた。
 いつも猫背気味でやや前かがみの状態でも、私よりも遥かに大きく感じたその男が背筋を伸ばして立っていると、ことさらその大きさが強調される。近づくにつれ、前から感じていた妖怪が覆いかぶさってくるような妙な迫力よりも、威圧感があった。
 いや、ここで怯んでしまうわけには行かない。
 目に見えない威圧感に抵抗するように、無表情を装って近づく。
 彼は、両手をポケットに突っ込んだまま目を閉じていた。近づいてくる私のことにも、まったく気づくそぶりすらない。いつも眠そうだった横顔はやはりくたびれているようにも見えたが、春のやわらかい青空が、受験勉強という激戦を経て力尽きた彼を、自分の知らない誰か知らない男に見せた。
「久藤」
 手帳に問題解決を示す斜線の引かれていない最後の一行の名を、惜別を込めて呼ぶ。
 三年間で四本引かれた黒ラインのうち実に三本を保有し、三年連続で出入り禁止を食らった最大に不名誉な称号を持つ男。
 そして歴代の中で唯一、図書委員長でありながら図書室に入れない、矛盾した存在。
 そう、彼が私の、図書委員としての最後の仕事。
「………よう」
 彼、久藤重治はゆっくりと目を開き、そこに私の姿を確認すると、頭上から見下ろすように、静かに口の端をゆがめて微笑んだ。


[ ⇒第2話に続く ]