アウィスの翼



 晴れた日に空を見上げるのが私の楽しみ。
 白くて柔らかそうな雲や、風と戯れる小鳥達を見るのが私の好きな時間。
 飛行演習のない日は、空に生徒が舞うことはない。心ゆくまで空を眺めることが出来る日だった。
 木々の匂いを含んだやや強めの風が、大きく開いた窓から吹き込んでくる。ふわりと前髪をさらう風を胸いっぱいに吸い込むと、体の底から澄み渡るような感じがして気持ちがいい。ああ、この風に乗ることが出来ればいいのに。
 校舎の五階に位置するこの窓からは、背の高い木々も眼下に眺めることが出来る。風も、大地に立っているときより少し強く吹いて気持ちがいいし、何より空が近い。人気のない第三校舎のさらに端っこ、滅多に使われることのない家政科資料室前の廊下にある一つの窓が、今の私のお気に入りだ。しんと静まり返ったこの場所には大抵誰もいない。他に人がいないという気安さから、私は思いっきり伸びをする。
 ふと、資料室の前に掛けられている鏡が目に入った。誰が何の目的でこんなところに置いているのかは判らないけど、この鏡は何故かいつもぴかぴかだ。そんな鏡の中には一目で平凡と判る少女が薄暗い廊下を背景にして映っている。低い鼻、低い背、健康的とはいえない白い肌、両耳に掛かる部分を束ねている以外は背中の半分にまで届く黒髪を何もせずに下ろしている。腿まである丈のローブは体の前で閉じられており、色は学年色の紺青。袖と裾に白いラインをあしらっただけのデザインは、シンプルといえば聞こえは良いがどうにも味気ないもの。膝丈のキュロットスカートから伸びる足は白く、なんだか貧相だ。
 少女の名前はアウィス・ジニス。他の誰でもない、自分の姿だ。
 私は鏡から目をそらす。自分の容姿はあまり好きになれない。少し前までは自慢だった黒くて長い髪は、この学校に入ってからは気分を重くさせるものでしかないからだ。
 この学校の卒業生には優秀な魔法学士の女性がいたらしい。とても綺麗な長い黒髪を持っていたという話が残っていて、この地域で黒髪が珍しいことも相まって、誰も彼もが髪の事を話題に出してこう言うのだ、「同じ黒髪で、こうも違うものなのか」と。
 魔法学の成績を左右する要素の一つである潜在魔力量は、個々人による差が大きいと言われている。しかし魔力量の大小が髪の色に左右されるなんてことはない、つまり髪の色で魔法学の能力を測れるわけがないのだ。だから彼らの言うことは間違っている。勝手に期待して勝手に失望していくなんて、こちらにしてみれば迷惑以外の何物でもない。
 でも、そうと判ってはいても嫌な言葉を軽く聞き流せるような気持ちにはまだなれず、今日も教師の心無い言葉に落ち込まされてこの窓辺まで来てしまったのだ。おかげで授業を一つ、自主休講進行形だ。
 ぐったりと窓にもたれかかり、上半身を乗り出してみる。肩からさらさらと流れ落ちる髪が、次の瞬間、風に吹かれて舞い上がる。ずっと好きだったのに、今は少し嫌い。
「……髪、切っちゃおうかな」
「えっなにそれ、駄目だよもったいないっ」
 突然の声は、頭の上から降ってきた。思わずビクリと体を震わせる。
 驚いたが、この声には聞き覚えがある。私は無意識のうちに顔を顰めていた。
「……なんでこんなところにいるのよ。フロム・クロッゼ」
「何言ってんだよ、そんなのお互い様だろ」
 フロム・クロッゼ。細くて癖の強い金髪と翠の瞳を持ったこの少年は、容貌だけを評価するならば美少年と称して差し支えないのだろうが、その破天荒で自由奔放すぎる性格は大人の男性に憧れを抱く同学年の女子には受けが悪い。私はたいして親しいわけでも特別関心があるわけでもないのだが、何故かこの頃遭遇する機会が多く、さらに何故かよく話しかけられることがある。無論私の本意ではない。どちらかといえば、からまれている、と思っている。
「だいたいさ、なんで屋上にいないんだよ? おかげであちこち探しちゃったじゃん」
 目の前で見事な空中停止をしてみせた自由人は、その美少年顔に不満をいっぱいに表現して文句を言った。
 思わず溜息をつきかけて堪える。何故か、ですって?
「そんなの決まってるじゃない。あ・な・た・が、来るからでしょ!」
 力強く区切った言葉に怒気がこもる。
 そう、この校舎の中で何処よりも広く、そして美しい空を眺められる場所はいうまでもなく屋上だ。数日前までは私の一番のお気に入りで、校舎内のどの教室よりも足繁く通った場所だった。屋上に上がってまで高所を楽しむような生徒は滅多にいないから、大抵私は気のすむまで一人で自由に時間を過ごすことが出来たのだ。
 だから、あの日も私は一人で屋上から空を眺めていた。ぼんやりと風に流れる雲を見つめながら、風霊を誘う呪文を呟いていた。その日屋上に登る切欠になった授業で駄目出しを食らった呪文が、風霊誘引の呪文だったからだ。理論は理解したし魔行路も整えた、私が最も良いと思う状態で臨んだ呪文だったのだけど、指導教官の求めるものとは違っていたらしくあっさりと落第を食らったのだ。苦い思いでそれを思い出しながら、私は風霊を呼んだ。誘われた風霊は、まるで慰めるかのように一時私の周りを漂った。教官の言葉どおりなら発動するはずのない呪文にも関わらず、彼らは現れてくれた。嬉しさと悔しさがないまぜになりながら、私はただ彼らに感謝した。そして、風霊たちを空に返そうと印を組んでいたとき、突然その空に一つの影が飛び出してきた。
 その時、丸い目をさらに丸くして私を見ていた人物が、今目の前にいる少年、フロム・クロッゼだったのだ。
「なんだよ。わかってるなら待っててくれれば良かったのに」
 台詞を力いっぱい強調したにも拘らず、当の本人はどこ吹く風で曲芸飛行をしながら笑っている。
 この少年に見つかってから、屋上は私にとっての最高の空間からは遠ざかってしまった。私が屋上に行くと、どこからともなくこの少年がわいて出るのだ、ほとんどいつも。何度一人になりたいと言っても聞き届けられず、かといって静寂を守ってくれるような殊勝な心も持っていない。やむなく私は、これまであまり使わなかった第二候補、家政科資料室まで来たというのに、そんな私の平穏な日々もこれでまた終わってしまった。
「……というか、なんであなた空飛んでるのよ。演習時間以外で箒に乗ることは禁止されてるはずでしょ!」
「ばれなきゃいいんだよ」
 へらりと笑う少年にとっては、校則や規則というものは守るべき約束事として認知されていないようだ。
「それにそんなこと言うなら、授業サボってる誰かさんはどうなんのかなー?」
 そのうえ痛いところを突いてくる。
 いつもこう。こちらの質問にはのらりくらりとした態度で答えないくせに、ときどき的の中心をぐさりと刺してくるのだ。そんなとき私は何も言えずに口をつぐんでしまうのだけど、やっぱり今も黙り込むしか方法が見つからない。
 私が沈黙すると、少年はなんとも景気よく笑うのだ。なんだか負けた気がして余計にかたく口を引き結ぶ。
 へらへらと笑いながら少年が身振りで何かを指し示した。
 仕方ない。溜息を一つ落とすと、私は観念して窓から離れた。


「で、今日は何があったの?」
「え、別に何も……」
 ぎょっと肩を跳ねさせて条件反射のように視線を空にやってから、しまった、と顔を顰めた。
 問いかけはいつも唐突で、しかもずばり言い当ててくるから心構えをする間もない。『何か』じゃなくて『何が』って聞くこと自体、何かがあったことはもう確定されているようだ。
 うらめしげに隣を見れば、全て承知していると言わんばかりの満面の笑みを浮かべた顔はしっかりとこちらを向いている。青空を背景に、金の髪を風になびかせた様は一つの絵画のよう。
 膝を抱えるように座っているここは、私にとっての最高の癒し空間、屋上だ。一人になるために最高空間を諦めたけれど、見つかってしまったのならもう関係ないだろう、とのある意味開き直りによる場所移動だった。でもどうやら、私はもう一つ開き直ることになりそうだ。ああ、もう、溜息だってつきたくなる。
 私は抱えなおした膝に顎を乗せて、がっくりと項垂れた。
「定型文?」
「ええ。支配条文が抜けてるって。これだと精霊に自由を与える恐れがあるって」
 先程の授業で言われたことを思い出して語る。授業の教官はそう言って、落第点を押したのだ。
 少年はうぅんと唸りながら、私の隣に腰を下ろして胡坐をかいた。彼とはクラスが違うけれど、授業自体は同じものを受けているから、この定型文の問題が判るようだった。
「精霊に自由を与えることは危険だって言われてる。精霊の意思を封じて使用者に完全に服従させることが、基礎として考えられているから」
 難しい顔をして、少年は教科書どおりのことを言った。
 少しだけ落胆した。そんなことは私だって判っているのだ、でもどうしても納得出来ないから。
 私は膝に顎を乗っけたまま、屋上から見渡せる空を見渡した。どこまでも続く空がなんだか悲しかった。
「ねぇ、なんで縛らなくちゃいけないの? 心が通じ合えば、十分彼等は力を貸してくれるよ。勿論、私たちからもお返しをしなくちゃいけないけど、それは普通のことでしょ?」
 教官の言葉が蘇る。精霊に意思の疎通を、ひいては善良性を求めるなんて、幼稚な妄想もいいところだ、と。全てはただ支配するために。必要なのは目的に耐えうるだけの精霊を選択し、召喚する技術だけ。ただただ機械的に。そして言うのだ、不出来な黒だと。
 なんで、と問うことすら許されない。そういうものだと、固まってしまっているから。
 でも、私にとっては。
「俺、アウィスのそういうとこ好き。それが自然な考え方なんだよな」
 あまりに普段どおりに呟かれた言葉だったから、一瞬聞き流しそうになってしまった。
「……え?」
「だって、それって普通だもんな」
 ぼけっと見つめた先で、少年はにかっと笑った。
 同意されるとは思わなかったから、言葉に詰まってしまった。普通、って言ってもらったことなんて無かったから、思わず呆気に取られてしまう。しかも、こんなふうに自然に。
 じわじわと胸の中に暖かい何かが生まれた。火霊と水霊が仲良く手を取り合って、胸の中を温められた水で満たしていくみたいに。
 否定のない言葉は優しい。こんなに嬉しいものなんだ、話を聞いてもらえるのって。
 しみじみと言葉を反芻してみて、ふと思考が止まった。
 ……あ、れ? 今、なんか、不可思議な言葉も混ざっていたような……?
 むむむ、と思わず黙り込む。なんだか妙に顔が火照ってくるのはどういうことだろうか、変な汗まで掻いてる気がする。
 口を結んで黙ってしまったことに気がついたのか、少年がちらりと私を見た。
「アウィス?」
「え、あ、う、うん」
 あ、頭が上手く働かなくて、吃ってしまった。
 そうだ、特に気にすることじゃない、話の流れはおかしくないし、私が気にしすぎっていうか反応しすぎなのだ。普通に笑って話すだけなんだから、軽く流して。
 妙にほかほかする頭に折り合いをつけて、なんとか言葉を絞り出した。
「あ、ありがとう……」
 すると、きょとんと目を見開いた少年は、次いでにへらっと笑み崩れた。
「どういたしまして」
 少年はぱっと立ち上がるとすたすたと歩いて屋上の端に立ち、金網で出来た柵を背にして腕を広げた。
 そして満面の笑みを浮かべて私に言う。
「でもさ、アウィスが精霊たちを想ってること、精霊たちもちゃんと感じてるんだよ。そんで精霊たちもアウィスのこと大好きだから、お礼なんか用意しなくたって、アウィスのためなら何でもしてやるって、そんなやつらさ結構沢山いるんだ。ね、知ってた?」
 広げた少年の腕から、爽やかで強い風がさっと流れてきて、ぐるぐると私の周りで渦を描いた。
 判る、風霊たちのダンスだ。喜んでいる気配が風に乗って届く、触れる風の優しさを肌から感じる。
 呆けたのは一瞬だった。すぐに私の心は優しさに応えたい、喜びを分かち合いたいと訴える。私は心から風霊たちに呼びかける。
「――うん、私も、大好きだよ」
 風が渦巻いて膨らんで、風霊たちが歓声をあげた、ような気がした。
 吹き上げられた髪を押さえながら振り返れば、真っ青な空になびく癖のある金髪が太陽の光にきらきらと光っていて。
 翠の瞳がまるで風霊の喜びの気配を映したみたいに嬉しそうに笑んでいて。
 ああ、しまったなぁ。と思ったけど、たぶんもう手遅れだ。
 でも、ああもう、これじゃあ。
「フロム・クロッゼ!」
 教官の言葉も、黒髪のことも、あっという間に吹き飛ばされてしまった。
 私は立ち上がって風の渦に負けないように声を張る。顔の火照りは風霊のせいだと自分を誤魔化しながら。
「ありがとう!」
 青い空に吹いた風が、ふわりと長い髪をさらって広げた。



2008-7-1

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