迷い桜   一週間の夢物語


第一夜

 万物は流転する。
 宇宙に存在する全てものが形を変え、居場所を変え、時には融合、分離を繰り返し、移り変わる。
 では、存在が不確かなものは流転の流れに乗ることが出来るのか。
 姿は見える。声も聞こえる。けれど、その存在は定かでない。
 例えば、万物の中でも最も優れているとされる人間の魂は――。


 「やっべ、このあとバイトなんだよなぁ」
 幸太郎は、一度は前屈みになった上半身の頭部だけを持ち上げて、キンモクセイの香り漂う狭い天井を仰ぎ見た。
 背中を丸めながら首から上を仰向かせるという行為は、実際にやってみると厳しいものがある。特に体育の授業で一人だけ準備運動の段階で関節をボキボキと鳴らしてしまうオヤジ臭い高校生にとっては、決して楽な体勢とは言えない。
 それでも腹痛から気を逸らせるためには、このポーズが最適なのだ。
 キュルルと情けない悲鳴を上げる下腹をかばいつつ、今後の予定を考える。
 「四時からバイトだから、あと二時間か。母さんに薬もらって、あの坊主の長い説法を聞いている間におさまるか。
 つか、母さん、正露丸持ってっかな」
 「無駄じゃ」
 「へっ!?」
 「お前の腹イタは食い過ぎが原因じゃから、出すしかない」
 「じ、じいちゃん……? 何でこんな所にいるんだよッ!?」
 幸太郎が驚くのも無理はない。目の前に立っているのは祖父の幸作で、ここは寺のトイレの個室である。
 男が個室に入るということは、当然、「大」をもよおしているわけで、そこには尻を出そうが、鼻の穴全開で息もうが、一切羞恥を感じぬプライベート空間であることが暗黙のルールとして存在する。それなのに、何ゆえ祖父は掟を破り、孫のウンコタイム、もとい、密やかなる排泄行為を脅かしているのか。
 いや、その前に、祖父は去年死んだはず。今は彼の一周忌の最中だ。
 いくら寺のトイレとは言え、昼間から死んだ人間、つまり幽霊に遭遇するとは。そんな奇怪なことがあるのだろうか。
 いきなり大便の最中に現れた祖父の幽霊。この恐怖も有難みもいま一つの再会を前にして、幸太郎は現状を丸写しにしたようなマヌケな面を晒していた。

 「先祖代々、澤田家の男は食いすぎると腹イタを起こすと決まっておる。対処の仕方はようく知っとるわい」
 「先祖代々って、俺の胃腸が弱いのはご先祖様からの遺伝ってことか?」
 「いいや。ワシの親はどうだか知らん。子供の頃にはぐれたからの」
 「それじゃあ、たかだか三代じゃねえか! まったく、相変わらず言い方が大げさなんだよ」
 「お前も相変わらず、うだつの上がらん生活をしておるようじゃのう」
 テンポの良い祖父の毒舌に、幸太郎はぐうの音も出なかった。
 確かに祖父の言う通り、高校二年の春休みだというのに、幸太郎には何ひとつ「青春を謳歌している」と胸を張れるものがない。
 部活もなく、これといった趣味もなく、学校の成績も中の下をフラフラとさ迷っている。傍から見れば、張り合いのない生活をしていると映るだろう。
 だが、その生活を変えようとは思わなかった。人にはそれぞれ向き、不向きがある。
 しいて挙げれば、親友の俊也と始めたアルバイトは自分なりに力を入れている。ファミレスの調理場での見習い的な仕事だが、午後のアイドルタイムと呼ばれる暇な時間帯には料理を任されることもある。
 店長をはじめ、そこで働く人達は皆気さくで、休憩時間には学校の教師が決して口にしないような大人の話を「未来ある若者への教訓」として聞かせてくれる。
 そこそこ楽しく、たまに刺激があって、バテない程度に忙しい。それで充分満足だった。

 「ほら、早く出さんと、法事が終わってしまうぞ」
 祖父に促されて、幸太郎はもっとも優先すべき問題を思い出した。まずは、この腹痛をなんとかしなければ。
 「じいちゃん。悪いけど、出て行ってくれないか?」
 祖父といえども、人に、いや、幽霊に見られて用を足せるほどの度胸はない。個室とは、一人になれるからこそ個室というのである。
 孫の言い分が正しいと思ったのか、幸作は一瞬で姿を消した。ドアも開けず、音も立てずに、ロウソクの火が消えるように、ふっと。
 「やっぱり、幽霊だったんだ……」
 ひとりトイレに残された幸太郎の背中に、遅ればせながらブルッと震えが走った。


 その後、幸太郎は始終辺りに気を配っていたが、夜になっても祖父が姿を現すことはなかった。
 「やっぱり夢だったのか」
 できることなら夢にしたかった。いくら身内でも、幽霊は幽霊だ。薄気味悪さは否めない。
 自室のベッドに横たわり、幸太郎が昼間の記憶を眠りの奥底に封じ込めようとした時だ。
 「そろそろ出てきても良いかのう?」
 消えた時と同様、幸作が音も立てずに枕元にふっと現れた。
 「まったくお前は出て行けと言ったきり、なかなか呼んでくれんから」
 「じいちゃん! もしかして、ずっと待っていたのか?」
 「心配するな。幽霊になると、腹も空かなければ、暇を持て余すこともない。
 待っている間にあちこち行けて、存外、楽しかったぞ」
 晩年をベッドの上で過ごした幸作は、久しぶりに得た自由を満喫していたようである。年寄りの楽しげな口調に、忘れかけていた胸の痛みが再び顔を出す。

 祖父が亡くなる前の三年間。それはあまり思い出したくない記憶であった。
 ベッドに寝たきりで苛立つ祖父と、介護に疲れた母。その二人を横目に、幸太郎は知らん顔を通していた。勉強だ、アルバイトだと口実をつけて、介護に明け暮れる母とはなるべく距離をおいていた。
 祖父が寝ていた六畳の和室は一階の茶の間と続きの部屋で、中の様子は襖の隙間から窺い知ることができた。
 就寝用とは明らかに異なる介護用のベッドと、二十四時間点けっぱなしのテレビ。ベッドの側には雑巾、バケツ、大人用のオムツと簡易トイレが一箇所にまとめてあり、上からも下からも、どちらの排泄物にもすぐに対応できるよう準備されていた。
 どこを向いても汚物を連想させられる異質な空間は思春期の少年には近寄りがたく、母が消毒薬を用いて清潔にしているにもかかわらず、異臭がする気がしてならなかった。
 それでも可愛げのある年寄りなら、話し相手ぐらいにはなっていたかもしれない。
 けれどこの幸作は、食べ物の好みから布団の硬さ、果ては風呂の温度まで、自己主張の激しい「クソジジイ」であった。
 人の助けを必要とする身でありながら、敷布団は硬く、掛け布団は柔らかく、そして毛布は厚手のものと、全て指定しなければ気が済まない。風呂の湯がぬるい、洗い方が悪い、と言っては、訪問入浴で訪れた若い介護士を何人も泣かせていた。
 おかゆ程度の柔らかいものしか口に出来ないくせに、「肉が食べたい」と夜中に騒いだこともある。
 あの時、母は細かく刻んだ牛肉をさらに軟らかく煮込み、器用に箸でつまんで食べさせた。
 スプーンも、よだれかけも、母は極力使わなかった。プライドの高い祖父を慮ってのことだろう。
 それなのに、幸作は「安物の肉を食わせるな」と言って癇癪を起こし、皿ごと母に投げつけた。
 長年、呉服屋を営んでいた祖父の舌は富裕層を相手にするとあって肥えており、牛肉はロース以上の高価な部位でなければ口にはしなかった。
 そんな「クソジジイ」の葬式に涙する者は一人もなく、親戚一同、揃って安堵の色を見せていた。
 正直、幸太郎もホッとした。これで母に対しての罪悪感から解放される。汚物だらけの部屋もなくなり、友達を家に呼ぶこともできる。
 祖父の死に安堵する自身に僅かな罪の意識を感じながらも、これで元の生活に戻れるという喜びの方が強かった。一年前の葬式からずっと、今までは。
 だがしかし、苦しんでいたのは母だけではなかった。「あちこち行けて楽しかった」という祖父の笑顔は、ベッドの上にしか自由のなかった哀れな老人の苦悩を物語っている。

 「じいちゃん、なんで今ごろ出て来んだよ?」
 胸の痛みから逃れるように、幸太郎は話題を変えた。
 「それはな……」
 幸作は少し間を持たせてから、まるで重大発言でもするかのように真剣な面持ちで語り始めた。
 「これから一週間のうちに、お前の願い事を三つ叶えてやる」
 「なんで?」
 「理由は言えん」
 「だったら、止めとく」
 考える間もなく、幸太郎は拒絶の意を示していた。根っからの商売人である祖父が、たとえ幽霊になったとしても、無償で人に親切にするわけがない。
 「なぜ人の好意を素直に受け取れんかのう」
 「生きてた頃の自分の行ないを考えてから言えよ。どうせじいちゃんのことだから、三つの願いを叶えたら俺の体に乗り移れるとか、そういう裏があるんだろう?」
 「血を分けた孫にそんな非道なことはせん」
 「だったら俺じゃなくて、母さんにしてやれば? 一番世話をかけたのは、母さんなんだから」
 我ながら、なかなかの妙案だと思った。
 母は長男の嫁だからと当たり前のように祖父の介護を押し付けられ、父からの労いもなく、ひたすら我が家の無力な男どもに尽くしてきた。何も協力しなかった息子のせめてもの罪滅ぼしだ。
 しかし、せっかくの妙案も頑固ジジイによって即座に却下された。
 「お前の望みでなきゃ、いかんのだ」
 「だから、なんで?」
 「それは言えん」
 「だったら止めとく」
 先程から変わらぬ話の展開に、幸太郎の我慢もそろそろ限界に来ていた。
 こういう年寄りの頑固なところが、あの六畳の和室に近付かなかった最大の理由である。
 何度言って聞かせても、どんなに分かり易く事情を説明しても、結局は自分の思い通りになるまで同じ要求をし続ける。相手の都合などお構いなしで、己の主張を通すことしか考えない。
 赤子と変わらぬ自分勝手な祖父に、いつも不満を抱えていた。
 「じいちゃん、そんなだから葬式出したって誰にも泣いてもらえねえんだよ」
 堂々巡りの苛立ちから、思わず余計な一言を発してしまった。

 わがまま放題に生きてきた祖父は、母だけでなく、他の親戚にも迷惑のかけ通しであった。しかも彼より先に亡くなった祖母にいたっては、母に対する以上にわがままを通した上に、浮気までしていたという。
 早い話が、幸作という男は、頑固で、わがままで、スケベで、親切とは無縁のケチな老人だった。そんな祖父の死を悼んで涙する者など一人もいはしない。
 しかし、さすがに本人に葬式の話をしたのはマズかった。自分が死んだというのに誰にも泣いてもらえないなんて。
 「じいちゃん、ゴメン。あの……」
 フォローをするつもりで口を開きかけた幸太郎であったが、当の本人からは思わぬ返事が返ってきた。
 「知っとる。ずっと見ておった」
 「ずっと?」
 「ああ。ワシの葬式で悲しんでくれたのは節子さんだけで、幸一が式の間中ずっと居眠りしておったことも、お前が精進料理を二人分食べて腹を壊したことも、全部知っとる」
 節子というのは幸太郎の母である。祖父は母のことを「節子さん」、父のことは「幸一」と呼んでいた。
 幸太郎は、この三代つづく「幸」の字の連鎖にも嫌気がさしていた。祖父の「幸作」、父の「幸一」、そして自分の名前の「幸太郎」。
 親戚の集まりで「幸ちゃん」と呼ばれると、かつては三世代が同時に振り向いていたのだ。ダサいこと、この上ない。
 「それに節子さんには、ちゃんと感謝の気持ちを残してある」
 いかにも自分は思慮深いと言いたげに、幸作は皺だらけの口元を緩め、右手で顎鬚を撫でている。祖父の悦に入る時の独自のポーズである。これだけは幽霊になっても変わらない。
 「遺品を整理したけど、それっぽいものなんてなかったぜ。着物と、レコードと、古い茶箱と……」
 「それじゃ。その茶箱の中に節子さんへの感謝の気持ちが入っておる」
 「だけど、鍵がかかっていて何が入っているか分からないって。父さんが」
 「まったく親不孝者めが。あいつはワシの生年月日すら覚えとらんのか」
 幸作の口ぶりから、どうやら鍵の番号は生年月日のようである。
 「でもさ、じいちゃんだって悪いと思うぜ。こういうことは、前もって伝えておかないと」
 「こういうのはな、じきにお迎えが来るという時にしっとりと話して聞かせるから粋なんじゃ」
 「じゃあ、誰に伝えたの?」
 「いや、苦しくて、それどころじゃなかった」
 「じいちゃん……。意味ないよ、それ」

 幸太郎はひどい落胆を覚えた。自分勝手な祖父に端から美談を期待する気もなかったが、オチにもならないマヌケな話に、同じ血筋の者として裏切られた気分になったのだ。
 生きている間はわがまま放題の老人だったとしても、死に際に感謝の気持ちを形に残せば、受け取る側の苦労も少しは報われるし、「粋なじいさんだった」と、後々美談に化ける可能性もあるだろう。だがそれは、あくまでも伝わっていたら、の話である。
 何も言わずにこの世を去れば、やはりただのわがままな「クソジジイ」で、現にそう思われている。
 「あれだけ母さんと一緒にいたんだから、話す機会ぐらい、いくらでもあっただろ? 母さんだって神様じゃないんだから、言わなきゃ分からないって」
 「それじゃあ、ただの年寄りになってしまう」
 「は? じいちゃん、何言ってんの?」
 幸太郎は耳を疑った。幸作の死因は肺炎だが、最期は老衰と判別もつかないほど高齢で亡くなった。その紛う方なき年寄りから「ただの年寄りになる」と言われても、返事のしようがない。
 けれど幸作はもう一度、同じ台詞を繰り返した。
 「生きているうちに『ありがとう』と伝えてしまったら、ワシはそこでただの年寄りになってしまうんじゃ」
 そう呟く祖父はどこか寂しげで、幸太郎はそれ以上、問いただすことが出来なかった。
 どこから見ても年寄りなのに、「ありがとう」と伝えることで、どうして「ただの年寄り」になるのか。それのどこがいけないのか。
 そもそも、なぜ今ごろ幽霊になって現れたのか。三つの願い事とは何なのか。
 孫に多くの疑問を残したまま、ふたたび幸作は姿を消した。音もなく、ふっと――。






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