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『願いが叶ったんだと知って、今までの人生で一番、嬉しかったです』

いつも思っていたのは、面倒くさい、ただそれだけだった。
もう、生きていくって行為全般が、面倒で面倒で、他に感想はないってくらいその思いだけに支配されていた。それはべつに、普通の何もトラブルがない日でもそうだし、ほんの少しでもトラブルが起きたら、もうそれだけで何もかもが嫌になった。・・・何もなくても、嫌になっているんだけど。
でも本当に生きていくってことが煩わしくて、だからずっとずっと、思っていたし、願っていた。この面倒な全てから解放されたいって。その為にも、早く、早く、今、すぐにでも・・・、

死んでしまいたいって。

・・・でも、痛いのは嫌だったし、苦しいのも嫌だったし、怖いのも嫌だった。明日死ぬって言われたら、死にたいって思っているのに、頭がおかしくなるくらい怖がるだろうってことも、分かっていた。人間って、変に複雑な生き物だから。変に無駄な、生き物だから。
だから希望は、痛くなく、苦しくなく、一瞬で訳も分からないうちに死んでしまうこと。この希望が叶うなら、どんな惨めな姿の死に方だろうと構わなかったし、何処かに遺棄されて誰にも弔われなくても全然構わなかったし、趣味に近いくらい楽しく貯めている貯金を好き勝手に使われても構わなかった。死んだと同時にこの世の全ての人間に忘れ去られたって、全然、構わない。
本当に、一切構わない。
本気でそう思っていたし、願っていた。誰かさっくり殺してくれないかなって、いつもいつも、思っていた。ニュースで死んでいく、死にたくなかったのかもしれない人を知るたびに、代わらせてほしいって、親切でも善意でもなく、ただのエゴで思っていた。そう、ただのエゴで。
死後の世界なんかなくてもいい、ただ、終わりたい、そう思って・・・でも、小さな希望として、叶わなければそれはそれで仕方ないという程度の希望として、少しだけ思っていることもあった。死後の世界なんかなくてもいい、幽霊になんてなれなくて、死んでそれっきり、終わってしまっても構わない、構わない・・・けど、もし、もしも実はうっかり死後の世界的なものがあって、幽霊的な存在が本当にあるのだとして、死んだ後、そういう存在になれちゃったりするなら・・・、その、死んだ後の時間は、自由に楽しく暮らしたい、なんて、そんな希望。
嫌いな人間に関わることなく、気に入った人間からの好意を求めることなく、生活の一切に囚われることなく、生命の規則に縛られることなく、たった独りであるという事実を宝物として大切に抱え、優雅な幽霊生活の満喫。
馬鹿みたいな、妄想。自分でも分かっていた。こういうことを望んでいる人間に限って、死というものは訪れない。大体、良い人、生きていて欲しいと願われている人が先に死んでいくっていうのが、世界の法則。きちんと理解していた。理解した上で、それでも願っていた。願わずにはいられなかった。どうか物凄くあっさりと、簡単に死ねますように、と。死んだことが分からないくらい、一瞬で終われますように、と。ずっと、ずっと、何度も、何度も、願って、願って。

・・・超ラッキーなんですけど?

吃驚するくらいなくなっている重力。軽すぎる身体がバランスを失いそうになるのを、いまいち感覚が曖昧な足でどうにか踏ん張りながらも、実は本当に堪えているのはバランスが上手く取れない自分の身体じゃなくて、身体から迸りそうな喜びと、その喜びの背中を蹴っ飛ばして茶々を入れてくる疑問だった。二つの感情を軸に、この十四年とちょっとの人生の間に積もったあらゆる感情が持てる限りの力で暴れ回っている感じ。暴風雨の中に立っている、そんなイメージ。
今の私の何処にこんな力があるんだろうと、暴れ回る感情に振り回されながらも、不思議に思う。試しに伸ばした手は、小石一つ拾えなかった。そのくらい、力のない存在になってしまった私の何処にあって、何処から涌き出てきた力なのか?
願いどおり、あっさり死んでしまった私の。希望どおり、まさかの幽霊になってしまった私の。
まぁ、もうどうでもいっか。そんな事。
吹き荒れる感情の暴風雨の中、暫く耐え忍ぶように考えていた全ては、次第に治まり始めた感情と共に、何処か、納められるべき場所へと納められる。しかるべき、方法で。そうなれば後に残されるものは、今、現実として認識すべき事実だけだった。去りがたい強烈な喜びと共に、それだけがただ、残されている。
訳も分からないまま突然、あっさり死んでしまったこと。今、こうして半透明な、周りから認識されない感じで、しかも重力があまりない状態で私という存在があること。つまり、幽霊的な何かになれているということ。つまり、つまり、つまり・・・、

煩わしい全てから解放されて尚、『私』でいられるということ。

なんってラッキーなんだろ、私ってば! ・・・誰にも見えていないのをいいことに、道路のど真ん中で思わず会心のガッツポーズを作ってしまった。しかも片手じゃなくて両手だ、両手。
これが人通りの激しい往来で、しかも生身の状態でやれば冷たい視線が突き刺さっていたかもしれないけど、なんせ今の私は幽霊、お化けの身。自由気儘に振る舞うことを認められた身。もうガッツポーズだろうがなんだろうが、やりたい時にやりたいようにやったところで、誰からも見咎められることはない。やりたい放題、したい放題。
まぁ、そうじゃなくてもどうせこの通りは人通りが少なくて、通行人なんて滅多にない。この通りに面した家の・・・私みたいに、その家の住人でもない限りは。私は住人だった、になるんだけど。
そこまで考えて、ふと、思い出した。小さな引力を感じて見上げる先、右手のすぐ近くには、忘れていた名前を冠された建物がある。きっともう要らなくなるのだろう、名前。『沼野』。続く複数の名前の中には、いつ捨てればいいのか分からない名前もある。『紫乃』。あまり好きじゃない、私の名前。もう今日から誰にも名乗らないで済むし、この家からも、もう少し時間が経ったら外してもらえるはず。本当は今すぐ外してほしいけど、世間体があるから仕方ない。
このぐらいは我慢してあげないと、上手くいきすぎだしね・・・喜びが大きければ寛容になる心が、浮き足立つままに私自身をそう、説得する。そう、我慢しなくちゃいけない。だって今の私は最高にラッキーな人間。ずっと願っていたことが叶って、小さく出していた希望も叶った。これ以上ないくらいラッキーで、幸せな人間になれたんだから、ちょっとくらいの不満は許容範囲。いつもなら埃ひとつ分すら許さないけど、今日からはもう、いつでもカモン状態。
勿論、カモンっていったって、くるわけもないけど。誰にも認識されないんだから。誰にも・・・でも、たとえば他の幽霊とかはどうなるんだろう? 認識されるのかな? ふと浮かんだ疑問に、次の瞬間には小さな舌打ちが零れた。他の幽霊。つまり、赤の他人。想像するだけで、嫌気が差す。素敵な気分が、台無しになりそうになる。
これで死んだ後は幽霊社会に悩まされる、とかだったら、マジ最悪。
そんなものがあるくらいなら、いっそこの場で一思いにやってほしい、なんて、まるで生きている人間みたいなことを思う。でも、仕方ない。だってせっかく死ねたのに。せっかく自由になったのに。他人からも、自分からも。それなのにまた縛られるなんて、それこそ死んでも死にきれない。
ちょっと想像しただけで、全身から搾り出すような溜息が、幽霊の身とは思えないほど力強く吐き出される。素敵だった気分の代わりに身体に溜まりかけた、嫌な考えを吐き捨てるように。身体に湧き出している怒りとか不満なんて力も、全て振り落とすように。また、自由の身に戻れるように。強く、深く、長く、吐く、息。息。息。

まるで、大きな空洞を飲み込まされたような、果てしない白が広がった。

唐突、だった。吐き出せるだけの息を吐き出していると、突然、空気を失った箇所から広がるような空洞の存在を感じて、そうかと思えば確かに感じていたはずの力の存在を失い、辛うじて捉えていた地面すらも失ってしまう。
身体の軸は、一瞬にして方角を見失う。広がった白の眩しさに、開いていたはずの目は瞼の裏に退避する。軸どころか視界まで失った身体は、諦めに等しい無力さで爆発的な力にただ諾々と従う。従って・・・一定の方向性を持って流れ始めるのが、はっきりと感じられた。真っ白な空洞の中、開かぬ瞼の裏で。
それは、終わったはずの人生の中で経験した全てのもののうちでは、最高速度のジェットコースターに良く似ていた。
声も上げられないくらいの速度で引っ張られた。何に、何処へ、何故引っ張られているのかなんて分からないし、考えることもままならない。全身が振り回される感覚。地面に必ず返ってこれるという当たり前だった約束の有難みを、初めて実感した。身体が固定されていない恐怖すらも。
意識が身体から乖離しそうになるのが、他人事みたいに感じられた。もう駄目かもしれない、なんて、今更なことまで思って・・・肉体から解放されたのに、忘れられない条件反射で目を硬く、硬く閉ざして。瞼の裏に、小さな暗い明かりが虫みたいに飛び交うのを、確かに見た。見て、そして・・・、

いきなり、全てが止まった。

突然終わった、ジェットコースターのようだった。コースが無断で終わったかのように、感じていた全ての力が失われ、反動で身体が前につんのめるのを感じる。よろけそうになるのを堪えて、初めて何かの力から解放されている自分を自覚し、訳も分からないまま、ただ細い息だけを吐き出した。幽霊になっても殆どの反応は生きていた頃と変わらない、そんな面白くもない事実を学んで。
目を閉じたままだったことを思い出したのは、たぶん、数秒後。当たり前のように思い出した事実に、諦めに似た気持ちで目を開く。ゆっくりと、静かに。何が見えるかに、期待はなかった。あるのは、少しの不安だけ。突然感じた力の意味も、突然感じなくなった力の意味も、何も分からないままだったから。結論を先延ばしにするために、ゆっくり開いた目に最初に映ったのは・・・四角い石の群れだった。
・・・まぁ、幽霊だもんね。それなりのところにいろってことなのかな?
馬鹿みたいに規則正しく並んでいる石の群れを見下ろして、すぐに気がついた石の正体に、なんとなくそんな事を思う。細長い、石。規則正しく並んでいる、石。人間の、死んだ後。墓石。つまり、墓地。幽霊にとてつもなく相応しい場所。
見下ろしているうちに、肩から力が抜けていったのは、そこまでおかしな場所に引っ張られたわけじゃないと思えたから。幽霊の自分が墓場に引っ張られたってことなら、そこまでおかしな事じゃない気がするし、当たり前なのかなくらいにも思える。・・・気がして、ほっとひと息。それからもうひと息。・・・したところで、ふとおかしな事に気づいた。私の身長は平均ぐらい。ついでに、ここの墓場は平地。それなのに、今、墓場全体を見下ろしているなんて・・・そこはかとなく、おかしい。
私、何処にいるわけ? ・・・と、自分で自分に問いかけながら視線を真下に向けてみると、そこには周りに飽きるほど並んでいるのと同じような石があって、つるつるしていそうな石の上に、学校指定の革靴がしっかり乗っかっていた。勿論、私の革靴。私の足。幽霊にもきっちりある、足。
これはもしやかなりバチ当たり的な感じで、墓石に乗っかって、オマエ何様なのって感じに周りを見下ろしてるってこと? ・・・当然辿り着いた考えに、数秒間、考え込む。幽霊だから許されるかどうかを。でもたとえ許されるのだとしても、流石に気分は良くない。大体これ、誰の墓だよとか、色々考えながら視線は真下から少しだけ、上がる。前に向かって飛び降りようと思ったから。誰の墓かは知らないけど、とにかく、降りようと。
でもいっきに上げた視線は、飛び降りる予定の地点へ辿り着いた途端、劇的に止まる。そう、劇的に。どうして今まで気づかないでいられたのか分からないけど、その地点には・・・人間が、立っていた。突っ立っていた。突っ立って、見上げていた。
私を、見上げていた。
目が、合っている気がした。限界まで開かれた目が、合っている気が。固まっている、そう見えるのは、学ランを来た男子。無個性なその学ランは、たぶん、うちの学校のもので、しかもその顔は、何となく覚えがある。咄嗟に名前は出てこない。でも、たぶん知っている。たぶん、そう、たぶん・・・うちのクラスの男子。あまり印象に残らないタイプの、大人しい男子。
目が、合っている気がした。
絶対気の所為、真剣に言い聞かせるようにして、胸の内で繰り返す、言葉。身体は届いている気がしてしまう視線から逃れる為に、視線が届かない方向へ向かって軽いジャンプで石から飛び降りる。降り立つのは、予定地より左側。立たされていた墓石の、斜め前。外れた視線に安堵して、それから振り返って確認した墓石は、何の個性もない石で、でも刻まれている名前に、少しだけがっかりした。何を期待していたわけでもないのに、何故か、少しだけ。
沼野、なんて、きっと探せば他にも同じ名前の石が見つかるくらい、平凡な名前。
あまり好きじゃない苗字。でも、自分の苗字だから仕方ない。他人の墓石を踏んづけるよりはマシ。がっかりする気持ちをそう宥めてから視線を横に向けたのは、もう一つの確認事項を忘れてはいなかったから。気の所為だとは思うけど、気にはなっていたから。横を向いて、まず、さっきは気づかなかった花の存在に気づく。右手に持たれている、小さな花束。ささやかなその花束は、私には名前も分からない白い花だけで作られている。
クラスの代表とかになったのかな?
花によって自動的に浮かんできた発想は、小学生の時、隣のクラスの担任が亡くなった経験を経てのもの。でも代表にしては花束がちょっと小さい気がするかも、なんてどうでもよい感想を覚えながら、更に投げた視線。突っ立っている男子は、名前も思い出せない男子は、まだ、突っ立ったまま。突っ立ったまま・・・正面の墓石ではなく、左側にずれた方向を向いていた。目だけを見開いて、馬鹿みたいに固まって、ただ、真っ直ぐに・・・、

『目が、合った』

何かの冗談のように、目が合った。目が、合った。『異常』という文字が目の前に浮かんできて、読み上げるのを優先しているうちに、一歩、距離が近づいて。
外れない視線。その黒目が、ぼんやりと境界を曖昧にしていくのを、酷く遠い思いで見ていた。男子でも外で泣くことってあるんだ、なんて、感心もして。目の縁で必死に留まっている涙に、何か意味のある事を考えるのが難しかった。ただ、嫌だな、と思う。泣かれるのは嫌だなと。だって、それは・・・逃げ出せたはずの面倒事の一つだから。
「・・・ぬま、の・・・さん・・・」
物凄く湿っぽい、全然聞き覚えのない声がした。解体された私の名前。絶対おかしい、それだけはもう否定しがたいほどはっきりしているのに、何がおかしいのかがはっきりしない。肉体だけじゃなく、思考まで死んでしまったのかもしれない。もしかして、幽霊って脳味噌ないの?
思考の死体を探しての、沈黙。勝手に人の名前をぶつ切りにした男子の、沈黙。死体は、見つからない。切られた名前も、繋げてもらえない。沈黙は、一瞬のうちに広がる。見えない先まで、広がる。滑らかなその広がりを眺めながら、別のものがゆったりと広がっていくのを見る。重なる、滑らかな広がり。
・・・ってか、そもそも私、どうしてここにいるんだっけ?
一度は納得した疑問。再び姿を現す、疑問。自分の墓だから連れて来られた? それが正解の気がしていたけど、でもだったら何で初めからここにいなかった? どうして今、改めて連れて来られた?
少しだけ、ずれた何かの気配を感じる。形には、ならない。気持ちが悪い、違和感。それよりもっと強く感じる、何かの、不吉な影。生きている時は絶えず引き摺っていた、面倒、という私が何より嫌いな影。
「いっ、生きてたのっ?」とうとう零れる涙と、迸る絶叫。んなわけねーだろ、という突っ込みは、喉の奥に消えた。ついでに、墓の上にいきなり現れた半透明のヤツが生きてる人間だと思ってんの? という、小馬鹿にする台詞も飲み込んだ。あともう一つ、そもそもその前に言う事とか取るべき反応とか、そういうのがあるだろ、という苦言も捨てた。理由は、理性的なものじゃない。ただ、呆気に取られていた。何も形に出来ないくらい、ただ、純粋に。でもそれなのに・・・そんな私の反応もお構いなく、冷静さと客観性を失って興奮状態らしい男子は、続けて絶叫する。「ぬっ、沼野さんっ!」物凄い声。墓場というのは、声を響かせるには絶好の場所だ。

「俺っ、好きなんですっ!」

撒き散らかされる、涙と絶叫。素敵なくらい響き渡る声は、声という意味だけではないものに変わる。はっきりした、強い、強い力という形。全身に、きつく、きつくその力が巻きついたのが分かった。巻きついた力が、私の身体を遠慮もなく、引っ張るのも。
踏み止まる、引っ張り戻す、でも、叶わない。全力を出しても、叶わない。巻きついたものを振り払うことは、もう・・・、分かる、理屈ではなく、喩えるなら、見たこともないけど真理のような形で、強引に理解させられる。感じる力は、物凄く覚えにある力。ついさっき、強引に従わされた力。
分かってしまった。もう、知ってしまった。
目の前では、手にした花束を差し出して何かを喚いている男子がいる。何か、そう、何かだ。言葉は耳を素通りして、全く頭に入らない。入ったはずの言葉すら、今となっては理解の範囲外。もう話なんて聞きたくないし、口も利きたくないし、見たくもない。・・・けど、でもやっぱり一言だけ、一言だけは言いたい。言わずにはいられない。
震えていた。唇も、手も、足も。身体全体が、小さな震えに支配されていた。幽霊でも震えるんだ、震わせるだけじゃないんだ、そんな事を頭の片隅で考えてみるけど、全身に及んでいる震えが治まるわけもなくて。細かな震えを振り切って開いた口は、まだ名前を思い出せない、もしかしたら知らないかもしれない男子に向かって、本心じゃない言葉を迸らせる。墓場に響く、幽霊の絶叫。

『死ねっ! 馬鹿! オマエが原因なんだよ!』
「・・・え? えっ?」
『え、じゃない! 今すぐ死ね!』
「なんでっ?」

驚きで目を剥いている男子。その両目を潰してやりたいと、半分だけ真剣に思う。死んでしまえ、それも半分くらいは真剣で、でも、本心じゃない。本気で願ってはいない。だって死んだら、幽霊仲間になってしまう。だから真剣に思っているわけじゃないけど・・・でも・・・、
物凄く酷い目に遭ってしまえ!
・・・くらいは、かなり真剣に思わずにはいられなかった。