まだ夕方のはずなのに、山道は薄暗くて肌寒かった。さっき通ってきた道で摘んだ赤い花を手に、あたしはどこへともなく歩き続けた。蝉の声がうるさくて、自分の足音も聞こえやしなかった。
 あたしは、お父さんとお母さんに連れられて、お母さんの故郷の田舎に来ていた。べつに遊びに来たわけじゃない。お母さんの親戚の人が死んだので、お葬式をやりに来たのだ。今、お母さんたちはいろんな挨拶とか準備とかで忙しくしていて、あたしに待ってるように言ってどこかへ行ってしまった。親戚のおばさんの家はなんだか落ち着かなくて、あたしはこっそり抜け出して、こうして少し歩いた先にあった山へ入り込んだのだ。
 せっかくの夏休みだ。お葬式ではおとなしくしてなきゃいけないのは知ってるから、今くらいは自由にさせてもらってもいいと思う。だけど、ちょっと山奥へ入りすぎたかもしれない。足は疲れて、お腹もすいてきた。
「あーあ、何か面白いものないかなー」
 あたしは独り言を呟いて、あたりを見回す。山なんだから、動物が出てきてもいいのに。知らない花はいっぱいあったけど、もう見飽きてしまった。
 もう帰っちゃおうかな。そう思ったときだった。
「あなた誰?」
 あたしのすぐ後ろで、女の子の声がした。振り返ると、いつの間にそこにいたのか、あたしと同い年くらいの子が立っていた。
「あ、こんにちは」
 誰とは言われてもいきなり名前を言うのも変な気がして、とりあえずあたしは挨拶をする。白いブラウスに黒いワンピースを着た女の子は、同じような格好をしたあたしをしげしげと眺めた。
「おんなじ服みたい」
 そしてそう言う。あたしがこういう格好をしているのは、お母さんに着せられたからだ。お葬式だから。ということは、この女の子も同じなのかもしれない。もしかしたら、お母さんの親戚の子なのかな。
「どこの子?」
 あたしの心の中を見透かしたかのように、女の子はあたしに聞いてきた。ちょっと考えてあたしは答える。
「東京から来たの。お母さんの親戚の人の、お葬式に」
「ふーん。大変だね」
 女の子はそっけない感じでそれだけ言った。親戚の子じゃないのだろうか。考えていると、あたしのお腹が鳴った。蝉の声には紛れなかったのか、それを聞いた女の子はちょっと笑ってあたしを見る。そして、ポケットから赤い木の実を取り出した。
「食べる?」
 差し出された木の実は、艶があっておいしそうに見える。でもそこらへんで取ったものみたいで、土がこびりついていた。あたしの前で女の子はひょいと木の実をつまみ、そのまま食べる。迷ったけど、あたしは首を振った。言わないでおいたけど、どうしてもその木の実が汚れて見えてしまったのだ。
「あたしはいいよ」
「……泥がついてるから? まったく、これだから東京人は」
 女の子は笑いながら言った。嫌味じゃない感じの言い方だったから、あたしも別に馬鹿にされたとは思わなかった。
「私、ゆづきって言うの。あなたは?」
 女の子が聞いてくる。あたしは答えた。
「麻衣」
「ふーん、麻衣ね。ねえ、遊ばない?」
 木の実はもういいのか、ポケットにしまってゆづきは言った。ちょうど面白いことを探していたのだ、あたしは頷く。ゆづきは満足そうに笑い、あたしの手を掴んだ。
「こっち来なよ。いいもの見せてあげる」
 あたしの手を引いたゆづきは、けもの道へと分け入っていった。

 *       *       *
  
 ゆづきに連れられてだいぶ山の中を歩いた。あたしはたぶんもう帰り道はわからないけど、ゆづきは山によく遊びに来るみたいで、道を知ってるといっていた。あたしを連れて帰ってくれるって。
 いつの間にか空は暗くなって、あんなにうるさかった蝉の声もひぐらしのさみしそうなものに変わっていた。
「見て、この川ね、夜になると蛍が来るの」
 木の間からようやくひらけた場所へ出ると、目の前に小さな川が流れていた。そのそばへ駆け寄って、ゆづきが自慢げに胸を張る。蛍なんて東京じゃ見れない。あたしは素直に驚いた。
「ほんとに? 今日も来る?」
「いつも来るよ。だいたい今ぐらいの時間。もうちょっと待ってて」
 ゆづきと並んで手をひたした川の水は冷たくて気持ちいい。ふと、あたしはさっきから握り締めてきた赤い花を見た。摘んでからだいぶ時間が経ったからか、しおれ始めている。何とはなしに茎を川につけてみるけど、それで元通りになるはずもなかった。
「――麻衣」
 薄紫だった夕空が黒くなったころ、ゆづきがあたしを呼んだ。ふと顔を上げると、ゆづきが指差す方に小さな黄緑の光が浮いていた。蛍だ。
「すごい、ほんとだ」
 手を叩いてあたしは言った。蛍はいつの間にか増えていき、まるであたしたちは銀河のなかにいるみたいになった。真っ暗な世界のなか、どっちを見ても、黄緑の光がふわふわと漂っている。
「ほう、ほう、ほーたるこい」
 隣のゆづきが歌いだす。なんだかとても楽しくなって、あたしも彼女にあわせて歌った。
「こっちのみーずはあーまいぞ……あれ?」
 蛍の群れのなかに、一際大きい光があるのが見えた。ひらりと浮かぶそれはあたしのほうへ近づいてくる。思わず手を伸ばすと、それはあたしの指先へとまった。薄いピンク色に光っているけれど、どう見ても形は蝶々だ。あたしはゆづきを見る。
「これ、蝶だよね? 蝶にも光るのっているの?」
 ゆづきはあたしの質問には答えずに、歓声をあげて蝶を見た。気付けばあたりには蛍だけじゃなく、たくさんの光る蝶が飛んでいた。ピンクや水色、白、いろんな色があたしたちを取り囲む。
「麻衣、あっち」
 ゆづきが川の反対側を指差す。蝶はそっちから飛んできていた。川の向こうの森の中――暗くて見えないけど、その奥から。
「行ってみようよ」
 それだけ言い、あたしのほうは振り返らずに、ゆづきは川に踏み込んだ。そんなに深い川じゃないみたいで、スカートまでは濡らさずに、ゆづきはあっという間に向こう岸へ行ってしまった。
 あたしも川に入ろうとして、立ち止まった。今日はいてきた靴は、お母さんが新品をおろしてくれたものだ。靴下もレースがついて綺麗。ゆづきは気にしないでざぶざぶと歩いていったけど、あたしはためらう。
「靴と靴下脱いできなよー!」
 あたしの様子に気付いたのか、ゆづきが声を張り上げた。言われたとおりに靴を脱ごうとして、あたしはまた止まる。ハンカチも持ってこなかった。濡れた足でまた靴下をはくのは気持ち悪い。かといって、裸足で道を歩けば泥だらけになってもっと嫌だ。蝶のすみかはすごく気になったけど、なぜか今のあたしにとっては、靴が汚れることや足が濡れることを気にする気持ちのほうが大きかった。
「あたし、渡れないよ」
 向こう岸のゆづきの輪郭は、暗くてほとんど見えない。だけどあたしがそう言ったとき、彼女がほんの少し悲しそうな顔をしたのが、わかった。
「蝶々見たくないの? 一緒に行こうよ」
「待ってるよ。見てきて、教えて」
 ゆづきはますます悲しそうに、泣き出しそうな顔になった。そしてぽつりと呟く声が、川を越えてあたしに届く。
「……できないよ……」
 途方に暮れたような声だった。泣いてしまうんじゃないかとあたしがはらはらしたとき、ゆづきは俯いていた顔をぱっと上げる。そして川を渡って戻ってきた。
「いいの?」
 あたしが聞くと、もう悲しそうな顔はしないで、笑ってゆづきは言った。
「いいよ。一人じゃつまんないし。でもいつか一緒に行こうね」
「うん」
 いつか。でもあたしは明日くらいに東京に帰っちゃうし、いつかなんて来るのかな――そこまで考えて、あたしは思い出した。もう帰らないと、お母さんに怒られてしまう。
「ゆづき、あたし帰らなきゃ」
 まだ蛍も蝶も飛んでいたけど、帰らなきゃいけないのは仕方ない。ゆづきを見ると、彼女はぼんやりと蝶たちを眺めている。
「帰り道、わからないって言ったらどうする?」
 そして、そんなことを言った。あたしはもちろんすごく驚いた。こんな山奥に取り残されてしまったらどうなるのか。心臓がすうっと冷える。しかし、あたしがゆづきに何か言いかけるより先に、ゆづきは声を上げて笑った。
「嘘だよ。怒んないで。麻衣がこっち来てくれなかったから、ちょっと意地悪した」
「もう、やめてよ」
 本当にひやっとしたのだ。ゆづきはやっと笑うのをやめて、あたしの手をとった。
「じゃ、帰ろう」
 まだ飛び回っている蛍や蝶に名残惜しさはあったけど、あたしたちはけもの道へと引き返した。

 *       *       *
  
 お母さんたちのところへ帰ったあたしは、やっぱり勝手に山へ遊びに行ったことがばれて大目玉をくらった。山は怖いところなのだから一人で行くな。この町に暮らしてる子どもだってそんなことはわかってる。お母さんはそう言っていた。だけど、この町の子どもが山に入らないなんて嘘ってあたしは知っている。だってゆづきがいたもの。ゆづきはちゃんとあたしを麓まで連れて行ってくれた。ばいばいと言って、あたしたちは別れた。だけどあたしは、ゆづきのことをお母さんに言うのはなんとなくやめていた。
 でも、光る蝶のことは聞いてみたかった。だからその次の日、東京へ帰る飛行機に乗るために呼んだタクシーを待っている間、聞いてみた。
「ねえねえ、蝶って光るの?」
 親戚のおばさんとおしゃべりしていたお母さんの服の裾を引っ張る。こっちを見たお母さんは笑った。
「何? 光る蝶がどうしたの?」
「だから、ちょうちょって光るの? 水色とかピンクに」
「光らないわよ。ピンクの蝶もお母さん見たことないわねぇ」
「ふーん……」
 お母さんはあの蝶を見たことがないのか。すると、親戚のおばさんが膝をかがめてあたしを見た。
「光るちょうちょねぇ。麻衣ちゃん見たの?」
「うん」
「……そうなの。あのね、この町では、ちょうちょが人間の魂だって、言い伝えられてきたのよ」
 昨日見たものを思い出した。真っ暗闇にふわふわ漂う、光る蝶。おばけの人魂というにはちょっと綺麗すぎだけど、そう思おうとすれば見えないこともない。あたしは無言で頷いた。
「でも、心の綺麗な人じゃないと見えないの。麻衣ちゃんは心が綺麗なのね」
 おばさんはあたしの頭を撫でた。ほんとかなあと思いつつ、あたしはまた頷いた。
 タクシーが来て、あたしとお父さんとお母さんはおばさんにさよならを言って乗り込んだ。ドアが閉まって、タクシーは走り出す。後ろの席に座っているあたしは振り返った。手を振るおばさんの後ろに見える、あの山が遠ざかっていく。
 ――いつか一緒に行こうね。
 ゆづきの声を思い出した。今度この町に来るのはいつになるだろうか。大人になっているかもしれない。もうゆづきは山になんか入らなくなってるかな。もしまたゆづきに出会えても、そのときあたしたちの心は綺麗で、光る蝶をまだ見れるだろうか――。あたしはぼんやりと、そんなことを考えた。
 いつかが来るのかはわからない。だけどあの山は、いつまでもそこにある。

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