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 私は今日も、息を止める。


 新学期が始まって、一週間が経った。遅咲きの桜がようやく綻びだし、朝陽をうけて川沿いの通学路をほんのりと染める。冬用の紺セーラー服を着た生徒たちが、交し合う言葉もかしましく落ちた朱色の煉瓦道を往き、校門をくぐり抜けていく。
 そんな、春の風景。
(くだらない)
 私は心の中で毒づいて、唇をきゅっと結んだ。世界も、私も、本当はなにも変わっていないというのに、なぜ春になると皆、浮き足立つのだろう。草木さえ鮮やかさを持ちだしてくる。私は、こんな景色の一部に自分が塗り込められてしまうのがどうしようもなく嫌だった。息の凍るような硬い冬の色彩のほうがまだよかった。
 私は立ち止まる。
 片手をゆっくりとあげて、指先で口元を覆う。息を止めた。
 とたんに、世界の時間は止まった。周囲の生徒たちは呑気な表情のままその動きを止め、川の流れも、朝の光も凍りつく。色を失い、灰色に染まった風景の中で、私のセーラー服だけが染みのように黒々と浮いている。
 私は息を止め続ける。身体の奥にかすかに響く心臓の鼓動だけが、この世界で動き続けている。ここは、私の世界だ。誰も知らない、誰も入れない。私のことは、誰も知らない。
 けれど一つ息をついてしまえば、すぐに時間は動き出してしまう。苦しさを感じ、息をついた。たちまち世界は色を得て、音を得て、再び動き出す。
 ずっと、私だけの世界にいられたなら。名残惜しさにそっと目を閉じ、私は歩き出した。


 騒々しい教室へ入る。名も知らない生徒たちが、あちこちでグループを作っては談笑している。
 自己紹介なら一週間前、新学期の初日に終えた。だけど、あんなもので他人の存在を覚えられるわけもない。次から次へと流れていく氏名と顔。それぞれの趣味、部活、抱負。情報は無意味に通り過ぎて、私の心には誰一人、残らなかった。そしてきっと、私のことも、誰の心にも――。
 だからこの賑やかな教室で、私は一人だ。この場所には私しかいない。
 決められた自分の座席に落ち着き、文庫本を開いて始業時刻を待った。
 やがて、挨拶とともに教師が姿を現す。一時間目は英語。担当教師はこのクラスの担任でもある。若い男性で、常にラフな服装をしていた。新学期のホームルーム早々、生徒たちにあだ名をつけたり、放課後に残っては彼らに混ざって喋ったり、生徒との距離が近いと評される教師のようだった。けれど、私はそういった態度があまり好きでなかった。
 そんな担任の英語の授業は、はっきり言ってしまえば、あまり意味の無いものだ。生徒に教科書の問題文を英訳させ、黒板に書かせて講評する。しかし、授業の終わりにすべての問題の解答プリントを配るのだ。それだけ手に入ってしまえば出席せずとも問題は無いため、教室にはいつもちらほら空席がみえた。
 指名された生徒が前に出て、自分の解答を黒板に書き、また席に戻る。教師が解説を始める。私は話半分に教師の言葉を聞いていた。ぼんやりと、無個性な生徒たちの後姿を眺める。
 そのとき、教師が笑わせるようなことを言い、教室に笑いの渦が巻き起こった。
 こういうのが苦手なのだ。面白くもない話に、なぜ皆笑えるのか。もちろん、誰も私のことなど見てはいないのだ、無理に表情を作ってあわせる必要はない。……それでも。
 私はシャープペンシルを置いた。右手をそっと持ち上げ、指先で軽く唇に触れる。息を止めた。
 世界が灰色になり、時間が止まる。笑顔のままのクラスメイトたち、奇妙なポーズのままの教師。誰も動かない。色が無い、音も無い。とても静かで完成された、完結した世界になる。
 やがて、自分の鼓動が喉の奥を圧迫するように響いてきた。だんだん苦しくなってくる。息を吸いたい。でも、まだ私はここに、私の世界にいたい。
 息をしたい。
 訴えるような一つの鼓動を最後に、私は観念して呼吸を始めた。瞬く間に、辺りに色と音が満ちる。
 目の前がわずかに霞み、頭がふらついた。少し無理をしすぎてしまった。顔をしかめて、ゆっくり深呼吸を繰り返す。
「青木っちー?」
 ふと、私は自分の名が呼ばれていることに気づいた。はっとして顔を上げると、教壇では教師が首をかしげるようにして私のことを見ていた。何名かの生徒も、教室後方の席に座る私を振り返っている。
「青木っち、問三なんだけど……どうした? 具合悪そうだなー」
 当てられていたのか。息を整えるのに気をとられて気づいていなかった。
「すみません」
 失態に少しだけ頬が熱くなる。英語はもともと得意科目だ、課題は問題なくこなせている。ノートを手に立とうとしたとき、教師が言った。
「いや、大丈夫? 具合悪かったら保健室行っても……ええと、保健委員は」
 まさか、世界の時間を止めるために息を止めてただけですなどと言えるわけもない。それが私にとっては事実であっても、周りからすればただの妄言に過ぎないことはわかっている。教室を見回す教師に対し、平気ですと言おうとしたとき。
「私です、保健委員」
 涼やかな声とともに一人の生徒が立ち上がった。クラスの注目が集まるなか、彼女はてきぱきとした動作で自分の椅子を整え、波打った栗色の髪を揺らしながら私に近づいてくる。やや面長の顔つきに、黒目がちの瞳。もちろん、私は彼女の名前を知らない。
「ああそうだ、うみちゃんだった。保健室までついてってあげて」
「はい。――大丈夫?」
 彼女が差し出してきた手には触れず、頷き返して私は席を立った。体調不良ではないからと断れるような雰囲気ではなかった。
 彼女の後について廊下に出る。教室の引き戸が閉められたとたん、まるで別世界に来たかのような感覚を持った。ここは決して静かなわけではない。薄いドア一枚隔てた室内からは教師の声が漏れ出てきている。けれど今、ひと気のない廊下と授業中の教室は、たしかに別領域だった。
「歩ける?」
 ふいに、隣に保健委員の生徒がいることを思い出した。頷く私に彼女は微笑み、行こうか、と促す。
 足音も静かに廊下を歩き、いくつかの教室を通り越して階段へついた。そこに来て、横を歩く彼女が問いかけてきた。
「青木さん、私の名前知ってるっけ?」
「……ええと、」
 先ほど教師に『うみちゃん』と呼ばれていたが、本名は思い出せない。口ごもる私に気を悪くした様子もなく、彼女は名乗った。苗字だけを。
「苗字、海棠(かいどう)なんだけどね。そこからうみちゃんて呼ばれてるの」
「そうなんだ」
 曖昧な返事をしながら、私は彼女が――海棠さんが、私の名前を知っていたことに驚いていた。話したこともなく、目立ちもしない私のことを覚えていたのか。もともと、人の名前を覚えるのが得意なのかもしれない。
 それからは会話もなく階段を降りきった。この先の渡り廊下を突っ切ってから曲がれば保健室だ。体調不良でもないのに保健医に何と告げるべきか。そんなことを考えていると、再び海棠さんが言葉を発する。
「……静かだね」
 渡り廊下のあたりには教室は無い。事務室や校長室、備品庫などが連なるだけだ。北に面する廊下からは日の光もあまり差さず、薄暗い。音も無く、色も無い――息を止めて飛び越える境界、私の世界が、目の前の景色に重なって見えた。
 ただ、足音は二つ。ここが時間の止まった世界でないことを証明する存在が、私の隣を歩いている。
 するとそのとき、
「なんだか、時間が止まってるみたい」
 私の心を見透かしたかのように、海棠さんがそう言った。思わず私は顔を上げて彼女の横顔を見つめる。俯きがちに歩く彼女は、かすかに、穏やかな微笑みを浮かべているようにも思えた。
「ん?」
 私の視線に気づいた海棠さんが、こちらを見返して首をかしげた。黒目がちな瞳が無邪気に揺れている。
「いや、えっと……」
 なんでもない、などと適当にごまかしてしまうこともできた。だけど私は、今しがたの彼女の言葉――『時間が止まってるみたい』、この廊下を歩いてそう感じた彼女の心のうちに、少しでいいから触れてみたくなっていた。
 ぎこちない言葉で問いかける。
「そういうふうに、思うんだなって……」
 語尾を濁して、よく磨かれた床を歩く自分のつま先に視線を落とす。だめだ、うまく言えない。内心落ち込んだ私に向かって、海棠さんは笑いかけた。
「うん。学校って、いつも賑やかで眩しいんだよね、私にとって。でもそんな場所にいるはずなのに、ここは静かで暗くて。私たち以外のすべてが動いてないみたいに感じる」
 私たち以外のすべてが。彼女はそう言った。
 いつの間にか角に差し掛かっていた。曲がるとすぐに保健室が見える。淡いグリーンのカーテン越しに、室内の灯りが廊下にこぼれている。
 海棠さんが一歩先に出て、引き戸を開けた。私は、小声で挨拶をしながら室内を覗き込む彼女の背中を見つめる。私の具合が悪い様子もないことに、彼女は気づいていないのだろうか、などと思った。短くはあったが、会話もしながらここまで来たのに。
 ふいに、海棠さんが私のほうを振り返り、困ったような表情で保健室のドアを閉めた。入らないのだろうか。私は聞いた。
「どうしたの?」
「なんか、先生いないみたい。電気はついてるから、席を外してるだけなんだろうけど……」
 私が何か言いかけるよりも先に、彼女は言葉を続けた。
「中で待っててもいいんだけど、いちおう保健委員の規則としてはね、こういう場合、職員室に行ってほかの先生にことわっておかなきゃいけなくて」
 どうする? 彼女は私に意見を求めた。それがどういう意味の『どうする?』なのか、私にはわからなかった。無断で室内で待つか、規則に従うか。――それとも。
 薄暗い廊下、閉められた保健室の扉の向こうからこぼれる光は頼りない。
 目の前の海棠さんの表情は読めなかった。
「いいよ。そんなに体調悪いわけじゃなかったから、戻ろう」
 私は、心に浮かんだ二つのどちらでもない選択肢をえらんだ。海棠さんが一度だけまばたきをするのがわかる。彼女の横を通り過ぎ、もと来た道を帰ろうとしたとき、後ろから声がかかった。
「――ねえ。具合悪いわけじゃないなら、このままどこか行かない?」
 それはささやきかけるような声だった。けれど、静寂に満たされた廊下だからか、妙にはっきりと私の耳まで届く。振り返った私の視線と、海棠さんの視線がぶつかった。その表情からは、彼女の心が見えない。
「どこかって……」
 授業をさぼるということか。戸惑いを隠せない私に、彼女はにっこりと微笑む。
「青木さん、英語得意でしょ? 当てられてもいつも間違わずに答えてる。私も英語は得意科目なの。それに、先生には悪いけど、友達にプリント見せてもらえば平気だし」
 あたりはどこまでも静かだ。誰もいない。私と、海棠さん以外は。
 先ほどの授業を思い返した。息を止め、私は私の世界へ逃げていたのだ。あの教室に、あの場に、いたくなかったから。息を止めて苦しくなっても、無茶をするほど、いたくなかった。
 だから私は今この場所にいる。
「ね?」
 こちらへ一歩近づいてきた彼女が、やはりささやくほどの小さな声で返答を促してくる。
 無言のままに、私はひとつ頷いた。


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