奇骨賛歌 1



一  罪人の娘

それは、南京にほど近い、定遠(現安徽省ジョ州市定遠県)という街でのことである。
夜半、その中の一軒家から若い娘の悲鳴が上がった。南京の酒場から、いつものごとく
胡乱な輩を引き連れて返ってきた郭家の三男坊は、その悲鳴の中にただならぬ空気を感じ取って、
「野郎ども、ついてこい!」
たちまちそちらへ駆け出していく。
時に至治元(一一二二)年頃、元朝末期であった。
どんな王朝でも、百年、二百年も続けば綱紀も緩むし政治も乱れる。中央では賄賂が流行していたし、
(また盗賊が村の娘をかどわかしたか)
郭青年が憤りつつ悲鳴の後を追ったように、比較的平和だったこの辺りにも、盗賊などが
昼夜を問わず出没していたものだ。
さらに近頃は、官軍でさえもまた平気で民家に押し入り、わずかな食料を奪ったりする。
当時はそんな元に対抗して、庶民の熱い支持を受けていた白蓮教という宗教団体があったのだが、
「俺達は民の味方である。元王朝を倒して新しい王朝を作ろう」
というのを主旨に掲げていた彼らの組織のうち、末端に属している者も時にはそんな強盗に代わったから、
「俺かお前たちの知り合いかもしれん。売り飛ばされる前に、何としてでも助けろ。もしかして県令の
ところへでも連れて行かれたら、俺たちにはもう取り戻せん」
何とも物騒ではあるが、そのようなことを青年が口にするのも無理はない。庶民の中では、もはや官吏も
盗賊も同義だったのである。
ともあれ、そうして青年たちが走っていると、やがて松明の一群が近づいてくる。その明かりの中で、
屈強な男が数人と、中の一人が背負っている娘の姿が見えた。
(張のところの娘ではないか)
張家は、郭家ほどではないが、村の中ではわりに裕福な家の一つである。さらわれていこうとしているのが、
何度か言葉を交わしたこともある娘だと気づいて、
「急げ!」
短く告げ、郭青年はさらに早く走った。
そこへ突然、
「お前もあの娘の知り合いか?」
いつから共に走っていたものか、己の横にぴたりとつくようにしながら声をかけてきた者がいる。
「そうだ」
少なくとも己の取り巻きの一人ではないことは、声から分かる。驚きながらも、
(悪い奴ではなさそうだ)
直感的にそのことを悟って郭青年が頷くと、
「そうか。俺もだ。寺からの用足しの帰りにあれに気づいた。娘を助けるなら協力する」
闇夜の中ではあるが、その誰かも頷き返す気配がした。
そして彼は、
「よし、よい頃合だ」
言ったかと思うと、手にしていた短い棒を肩の上で構え、気合と共にそれを前方へ放つ。
前方で悲鳴が上がったのは、その直後である。動いていた松明の火がぴたりと止まり、
道脇の叢へと投げ捨てられる。そしてその連中は、獣のような悲鳴を上げてこちらへ向かってきた。
(なんだ、こいつは馬の奴ではないか)
郭青年が声の主の正体に気づいたのは、乱闘の最中である。
彼の家は、さきほどにちらりと述べた白蓮教を信仰している。重複するが、白蓮教とは当時、
中華のほぼ全域の庶民が信じていた浄土宗系の宗教であった。
馬青年もまた白蓮教関係の人間である。
もともと、宿州(現安徽省宿州市)の自作農であるが、
(親の代からの畑を少しずつ売り払って、こちらへやってきた奴だ)
折からの凶作続き、重税のために食えぬというわけで、まだ十代の頃に、より気候の暖かい定遠へ
家族と共にやってきたと子興は聞いている。
ひょんなことからこの地方を管轄している白蓮教の出納係を任されることになった。真面目すぎ、
融通の効かないところが、
「金の番犬にうってつけなのさ」
その役目に就いて、何がしかのおこぼれに預かりたいと考えていた連中の、やっかみ半分の評価を得ていたものだ。
「貴様は、こういったことには絶対に関わらないと思っていた」
やがて乱闘は終わった。逃げていく胡家の連中を見送りながら、見直した、といった気持ちをにじませて
郭青年が馬に話しかけると、
「俺の隣家の者が連れ去られようとしているのを、黙って見ている男がいるか」
と、白い歯を見せて相手は笑い、転がっていた松明を拾い上げる。
「誰かと思っていたら、郭家の若旦那か。これは失礼した」
火を掲げたことで、馬のほうはようやく郭青年のことに気づいたらしい。地方一番の献金者の息子へ、
同格の口を利いてしまったことをしきりに詫び、
「娘を連れて行きたいのだが、いま少し力をお貸し願えるか」
丁寧な言葉で告げて頭を下げる。馬青年のほうはといえば、なるほど、白蓮教内では、いわば出納係という
役職についていて、いざことが起きた時には武器も取るが、現実には郭家に雇われている小作人に過ぎないのだ。
倒れた連中へ、火をよくよくかざしてみると、
「なんだ、こいつらは胡家の連中のようだが」
よく見知った顔がそこにある。
「俺の家で使っている小作人だ。ひょっとすると嫁取りのつもりか。何とも物騒な嫁取りもあったものだ」
郭青年が呆れたように言うと、馬青年ら他の仲間も顔を見合わせて苦笑した。
それでは、と、張家の娘を仲間へ背負わせ、郭青年と馬青年は肩を並べて歩き出した。
「頭の固い奴だとばかり思っていたが、俺はお前を見直した」
郭青年が言うと、馬青年は少し笑って、
「俺の方こそ、貴方のことを誤解していた。ごろつきの親玉面をして、いい気になっているだけの奴だと思っていた」
「酷いな。だがそれも嘘ではない。自分でも思うが、調子に乗りやすいのが俺の欠点だ。おまけに
人の気持ちに疎い。自分でも分かっているのだが、今更直せないのだ」
あまりにも正直すぎる言われ方をされて、郭青年は怒るどころか、逆に大声で笑った。その様子を見て、
馬青年もふと微笑を漏らす。
郭青年は大徳六(一三〇二)年の生まれで、その姓名を郭子興(かく・しこう)という。馬青年が言うように、
この頃は無頼漢を引き連れて街をうろつくだけの「不良青年」に過ぎない。
その家は、何時の頃からかははっきりとしないが、子興の親の代には定遠随一の富豪の家として知られていた。
父の郭公がその妻との間にもうけた三男一女のうち、三番目の子である。
もしも世の中が混乱していなければ、子興もそのまま、地方の一富豪の「お坊ちゃん」として、まずそこそこの
一生を終えたろう。先ほども述べたように、家は白蓮教を信奉していて多大な献金をしているが、彼自身は
さほど熱心な信者ではない。
家を継ぐ必要のない者の気楽さに加え、三男坊であるから、と、両親からも、
「お前は、お前のやりたいように生きれば良いさ」
そう言われながら育てられたという境遇が、彼を若い頃から無頼漢とも付き合わせた。
近くの大都市といえば、南京である。その南京の盛り場で、胡乱な輩を後ろへ付き従え、酒場をうろつく
「郭の三男坊」の姿は、ある種の名物になっていた。
金持ちの坊ちゃんらしく、性格はまことに鷹揚である。金離れも良い。寄ってくる者は拒まず、去る者は追わず、
去って再び戻ってきた者にも、快く酒などを振舞ってやったりもしたから、
「郭の若旦那はいいヤツだ」
そのような「良い評判」は、むしろ無頼漢の間で高いし、さらに意外なことに、子供好きでもある。
己の家の畑を耕している小作人の子へ、
「よいから休め。腹は減っていないか。まず飯を食え。お前のような小さき者は、畑を耕すよりも、
腹を満たして俺の兄の子らとでも遊べ」
家に居る時は、必ずそう声をかけて己の邸内へ上げ、南京で得たという珍しい菓子をやったりもする。だが、
こちらのほうはあまり他には知られておらず、もっぱら「不良息子」のほうの評判のほうが喧伝されていた。
ゆえに、
「貴方には少し近づきづらかった」
馬青年が打って変わった親しみを見せて笑うように、定遠の人間、特に年寄りからは少々煙たがられている
存在でもあったのだ。
「だが、今宵は貴方を見直した。貴方はただの乱暴者ではない。村の若者が懐くわけだ」
繰り返す馬に、
「俺も貴様を気に入った」
郭青年も繰り返し、親しみを込めて乱暴に馬の肩を叩く。その後で、
「しかしまずいな。この娘は独り身か。それもかなり美人だ。ならば、またこんなことが起きるとも限らん」
真面目な顔をして、仲間の背負っている娘を振り返った。
「幸い、といっては何だが、俺もまだ独り身だ。なんなら、俺が嫁にもらってもいい。俺の嫁になったとなれば、
不埒な奴も近づけぬだろう」
「……ああ、そうだな。貴方の嫁になれば、この娘ばかりではなく、親も安心しよう」
不自然な沈黙の後、馬青年が答える。その沈黙の意味を深く考えることなく、
「よし、決まりだ。このまま俺が早速、張家に話をつける」
郭子興は言い、この娘を己の嫁とした。
これが、郭子興亡の第一夫人となった張氏である。
一番心配だった末っ子が、ようやく嫁持ちになったということで、
「やれこれで安心だ。ようやくあれも落ち着くに違いない」
誰よりも彼の両親が言って喜んだ。もっとも、その安心は束の間のことに過ぎない。張氏を嫁にして半年後には、
彼はなんと南京の牢屋に入れられる羽目になったのである。
とはいっても、さほどの罪を犯したわけではない。南京の盛り場での酔っ払いの喧嘩を止めようとして、
逆にことを大きくしてしまった、ただそれだけの話である。
(俺もカンが鈍った。罪持ちになってしまった)
牢屋に入れられたことで、興奮していた頭はすっかり冷えていた。
どうやら、郭家の若旦那、という身分が、ここに来て悪く働いたらしい。子興の顔と名前を知らぬ人間は
もはやいないから、官吏のほうでも見せしめとして牢屋へ入れたのだろう。つまりは結構な有名人であるから、
(悪くすると、このまま長いこと留め置かれるかもしれない)
普段から徒党を組んでいるといっても、ごろつき仲間はやはりごろつき仲間である。親分である彼が捕まったと知って、
蜘蛛の子を散らすように逃げていってしまった。
(やはり、ごろつきはごろつきか。あんな奴らと付き合っていた俺自身も、その程度の人間だったということだ)
がっしりとした木の格子のはまった窓から外を見て、子興は深くため息を着いた。
既に、月は中天に差し掛かっていた。夏の頃とて、外で虫が鳴く声が聞こえる。独りでいると、
(両親や妻は嘆くであろう)
まだ連絡はいっていないだろうが、知ればさぞや悲しむだろうと、彼らしくなく思考は暗いほうへと
沈むばかりである。
牢の中にもうけられた、形ばかりの粗末な寝床へ腰を下ろして頭を抱えていると、窓の外から、
小声で彼を呼ぶ声がした。そちらを見やると、
「お前か。まさかお前が助けにきてくれるとは思わなかった」
「貴方が捕らえられたと聞いて、助けに来たのだ。貴方は一体何をやっているのだ」
もっと慎重に行動しろ、と言いながら、馬青年が窓の格子を小さな鋸で切り落としているのである。
「見張りは気絶させている。貴方も自分で格子を切れ」
言って、格子の隙間からもう一つの鋸を差し入れる。言われるままそれを受け取って、子興もまた格子を切り始めた。
「貴方はもう、一人ではない。貴方には待つ者がいるのだから、軽はずみなことをしてはいけない。
家と県へ報せが行けば、貴方は立派な前科者になってしまう。そうなる前に逃げねばならん」
言いながら、馬青年の手は忙しく動いている。
「貴方が無事に家にたどり着けば、後は貴方の両親が何とかするだろう」
「確かにその通りだ」
再び容赦なく言われて、子興は苦笑した。
確かに自分さえ家に駆け込めば、なんだかんだで末っ子に甘い彼の両親は、彼のために奔走し、
「罪」をなかったことにしてしまうに違いない。
「戦えるか」
こうして、牢から外へ抜け出すと、馬青年は尋ねながら子興に一振りの刀を差し出した。にやりと笑って
子興が頷くのを見ると、馬青年もかすかに笑った。
「お前には、二度も助けられた。俺は、俺がどれだけいい気になっていたのかを、嫌というほど思い知らされた」
月明かりの中を共に駆けながら、
「俺は、俺自身にもそれなりの力があると思っていた。だが、それは結局七光りだった。俺は、親あっての
俺に過ぎなかったのだ」
子興はやや自嘲気味に言ったものだ。
それに対して、
「親というのは、まことにありがたい存在だ」
やや走る速度を緩めながら、馬青年は答えた。
前方に郭邸が見える。ここまで来ればほぼ安心だというわけで、
「親が相手に強く希望してくれたから、貧しい俺にも嫁が来てくれた。その親も、ついこの間二人とも死んだ」
「そうだったのか。それは寂しいことだ」
「ああ、愛する存在を喪うのは、まことに寂しい限りだ。この上ない恐怖だ」
乱れた息を整えながら、二人は会話を続けていた。
「だが、俺ももう少しで親になる。だから、もう寂しくない。俺は、俺の親に負けぬ親になりたいと思っている」
「……うん」
月が、柔らかく笑った馬青年の横顔を照らしている。それを眺めながら、
(こいつは本当にいい奴だ。それに比べて俺は)
子興は少し己の頬が熱くなるのを感じていた。金持ちの子という身分に甘えて、身も心もふらふらと定まらぬ
自身を恥じたのである。
「さて、ここからは貴方が自分でやれ。俺に出来るのはここまでだ」
言って、郭家の裏口まで送ってきてくれた馬青年へ、
「感謝する。今度は俺の番だ。お前にもし何かあったら、俺が全力で助ける。遠慮なく言ってくれ」
子興は真心から告げた。
「待て。あとひとつ。なぜ、俺を助けてくれた」
微笑って背中を向けた馬青年は、その問いに再び振り返り、
「貴方は、本当はとても良い人なのだ。貴方を喪えば、嘆く者が俺よりもずっと多かろう。数の上で
の単純な計算からそうしたまでだ。ではまた」
言って、右手を軽く上げ、別れを告げたのである。



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