『俺が、守ってやる。兄貴としてだけじゃなく、おまえが望むなら――』
列席する父兄や在校生の拍手が、講堂の壁に響く。
その音に迎えられて入場する新入生の中に義妹の麻子の背中を見つけて、
俺は自分が吐いた台詞を思い返していた。
――『男として』
なんて気障なことを言っちまったんだろうと思う。
麻子の人並みはずれて整った容姿や、華奢な白い手足に、中学生の俺が動じないわけがない。
3年前に親父が連れて来た、おっとりとした義母の隣で堅い笑顔を浮かべる義妹に、俺は目を奪われた。
俺も親父も、麻子や義母が気を遣わなくていいようにしてきたつもりだった。
それでも、必死になって明るくふるまう姿に、胸が痛んだ。
――半年後の中学3年の春、授業を受けていた俺の教室に、担任の教師が入って来た。
「木元、いるか――?」
「はい」
「ちょっと来い。――すいません、急用なんで」
授業をしていた英語の教師に会釈すると、席を立った俺を伴って職員室へ向かう。
「あの――なんスか?」
「……今、お父さんから電話があった。落ち着いて聞けよ――お母さんが、倒れられたそうだ」
俺の脳裏に、今朝の義母の笑顔が浮かんだ。――元気だった。いつもと変わりなく。
「義妹は――麻子は」
3つ隣の教室を振り返って、担任の顔を見上げる。
「職員室で待ってる。本多先生が送ってくれるから、すぐ病院に行くんだ。お父さんも向かってる」
職員室のドアを開けると、麻子が真っ青な顔で駆け寄って来た。
「リュウ、リュウ、どうしよう、お母さんが、お母さんが――!」
「……とにかく、行こう、な」
「リュウ、一緒にいてね? 近くにいてね?」
「当たり前だろ。ほら、行くぞ」
黙って俺達を促す本多先生について行って、車に乗せてもらう。
リュウ。
麻子がそう呼ぶようになったのは、うちに来て1週間くらい経った頃だった。
『お兄さん』とも『お兄ちゃん』とも呼びづらそうで、俺がそう呼ぶように言った。
たった2ヶ月しか誕生日が違わないし、俺は別に呼び方なんてどうでも良かったから。
子供の頃、母親が呼んでいた呼称を提案すると、麻子はとても気に入ったようだった。
『なんか、かっこいいね。そう呼んでもいい?』
――病院に着くと、本多先生が看護婦に取り次いでくれ、奥の病室まで案内された。
そこにいた親父の白い顔に、すべてを覚悟した。
「お義父さん……お母さんは?」
俺は思わず麻子の手を握り締めた。
義母の寝かされたベッドのまわりは不思議な静寂に包まれ、その顔には白い布がかけられていた。
「……どう……して……?」
麻子の膝が震え出す。崩れ落ちそうな細い体を支えて、そばの椅子に座らせた。
「……脳溢血だそうだ」
かすれた声で親父が告げる。
誰もいない家で、義母は1人で倒れた。
隣の家の奥さんが訪ねて来て、換気扇の音がするのにいくら呼んでも出て来ないことや、
鍵が開いているのを不審に思ってドアを開け――廊下に倒れている義母を見つけてくれた。
すぐに救急車を呼んだものの、手遅れだった。
麻子の隣にしゃがんでその華奢な手を握ったまま、俺は足元から地面に吸い込まれそうな気がした。
――いい人だった。
たった半年。まだ親子だなんて言えないけれど、
5年の間母親を知らなかった俺には、とても暖かい匂いのする人だった。
一応、誰もいないところでの突然死ということと、玄関の鍵が開いていたこともあって、警察の手も入った。
けれど、結局は病死として片が付き、義母の葬儀も滞りなく済み、親子3人の生活になった。
麻子の様子は、いつもと変わりなかった。
義母の代わりに家事をこなし、忌引きが明けると元気に学校に通った。
俺と親父の前では、笑顔を絶やさなかった。
――それが、どれほどの無理をその小さな肩に背負わせているか、俺も親父も分かっていたんだ。
けれど、麻子が元気にしていてくれること、このまま乗り越えてくれることを、望んでしまった。
俺や同級生が受験の準備にかかる頃、麻子は体調を崩し始めた。
それで漸く、俺と親父は自分の甘えに気付き、麻子をゆっくり休ませることにしようと思った。
――中学を卒業したら、就職して1人で暮らします。お義父さんにもリュウにも、迷惑はかけないから。
そんな馬鹿なことを言わせてしまったことに、自分を責めるしかなかった。
親父と2人で説得し、家に残ることにはなったけれど、結局高校受験には間に合わなかった。
1年、家事と親父の仕事の手伝いをする麻子に、俺は言った。
『今年は受験しろよ。俺と同じとこならいいだろ? ――大丈夫、何があっても俺がいる』
そして、あの台詞を言ってしまったんだ。
自分の言ったことに驚いている俺に、麻子は曖昧に笑った。
――それきりだ。
無事に高校に合格し、俺の後輩になっても、何も言わなかった。――互いに。
高校2年の秋。視聴覚室を使って行われている文化祭の実行委員会に、俺は顔を出した。
なんとなくまわりに押された感じで生徒会の副会長になり、予算やら各クラスの出し物やらを
確認するために出席する必要があったからだった。
「あとは、1−Cか。――おーい、1年C組、出し物の用紙出てないぞ」
口に両手を当ててメガホンにし、教室の中に向かって叫んだ俺に、小さな手が挙がった。
「はーい、今出します。すいませーん!」
でけぇ声。
教室の一番後ろから、よく通る声で叫び返した。
慌てた様子でプリントを抱えて、一番前の俺の席まで駆け寄ってくる。
「遅くなりました! よろしくお願いします」
はきはきと言ってぺこりと頭を下げる。
――それが、恵美だった。
『――少しの間、1人になる時間がほしい。本当にすまない。必ず戻るから、それまで会社を頼む』
高校3年の春。親父の書斎に残された手紙を手に、俺は天井を仰いだ。
最近、おかしいとは思っていた。
義母が死んでから、親父は麻子の心配ばかりして――その麻子が無事に高校に入り、
時々親父の仕事の手伝いもして、やっと一安心すると、気が抜けたようになっていた。
親父は義母に惚れ込んで、結婚を渋るのを必死で口説き落としたらしいから、落ち込むのも分かる。
分かるけど、どうしろって言うんだよ。
俺はとりあえず、麻子に手紙を見せた。
「――あたしが、やっちゃ駄目?」
……やっぱりな。
「だって、リュウは忙しいじゃない。受験勉強に、生徒会長に、剣道部の主将でしょ。無理よ」
俺がやるとは言ってない。
「だからって、おまえがやることはない。ほっとけよ。すぐ帰ってくるだろ」
「うん。それならそれでいいし。それまでの間、あたしが神埼さんとなんとかする」
「――無理だって。今までみたいに、たまにじゃ済まないんだぞ」
「分かってる。なんとかやってみるから、やらせて?」
こう言うだろうとは思っていた。
麻子はまだ俺や親父に遠慮して、自分が役に立てる場所を探していた。
だからなおさら俺は、麻子に社長なんかやらせたくなかった。
そんなもの気にせずに、自分の生活を楽しめばいいんだ。――彼氏にも会えなくなるぞ?
そう言おうかと思ってやめておく。
うちの現国の高木さんと付き合ってるのは、一応隠してるみたいだから。
――生徒会と運動部の部長会をナメてもらっちゃ困る。口の堅い連中ではあるけどな。
「おまえ1人じゃ無理だ。今までおまえがやってたような仕事もこなすんだから」
「じゃあ、友達と一緒ならいい?」
友達。
頭に浮かんだのは、小柄なよく笑う娘の笑顔だった。
麻子と同じクラスらしく、一緒にいるところを見かけたことがある。
――まさかな。
「その子といると気分的にも楽だし、仕事はちゃんとできる子だと思う。頼んでみてもいい?」
「……駄目だって言ったってやるんだろ」
2年生のうちは出ていた朝練も、半ば引退したような3年生はほとんど参加しなくなっていた。
まだ一応は主将の席にいるし、たまには出ることもあるけれど。
今日は普通に授業に間に合う時間に家を出て、電車に乗った。
――麻子は、先週から社長をやっている。
神崎さんはともかく、親父と仲の悪かった副社長(叔父でもある)や、他の幹部社員は麻子に冷たい。
今時、血のつながりなんてもん気にするほうがおかしいってんだ。
どうして実の息子の俺がやらないのか、という声ももちろんあった。
やりたくないから。
俺がやりたいのは、家を売るより作るほうで――建築に進みたいことは、親父にも話してある。
ここで社長代理なんてやってみろ。次代の社長として、うるさいのが寄ってきてしょうがない。
それでも、1人で奮闘する麻子が心配で、時間のある時には様子を見に行っていた。
――混んだ電車のドアの近くに、あの娘がいた。
今まで気付かなかった。この近くに住んでるのかな。
……俺のこと、覚えてる? 去年文化祭の実行委員やってたよね。
まるでナンパのような言葉が頭に浮かんだ。
それを振り切るように軽く頭を振って――駅に着いて乗り降りする乗客への対応が遅れた。
つまり俺は、押されるままに彼女のいるドア近くまで進んでしまった。
眠そうな顔で窓の外を眺めていた彼女は、ふわあ、と欠伸をした。
子猫のような呑気なしぐさに、つい頬がゆるむ。
と、次の駅に着いて、俺の背中に他の乗客の重みがのしかかってきた。
足元に鞄を置いて、頭上の手すりをつかんで堪える。
さりげなくガードしてやってることになんて気付くはずもなく、彼女は相変わらずぼんやりしている。
ふと、彼女が身じろぎをして、しばらくしてから顔を上げた。
俺を見上げた瞳と、まともに視線が合う。
心臓をわしづかみにされたような衝撃に戸惑っていると、彼女が俺を睨みつけた。
「やめてよ! 痴漢!」
――いくらなんでも、それはあんまりじゃないかと思う。
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