1. Evocation 〜喚起〜

ドアが閉まる音で目が覚めた。
午前5時。まだ外は暗い。
一応左側に手を伸ばしてみるが、やっぱり何も触れるものはなかった。
かすかに体温のなごりは残っていて、淳美がいたのには違いないんだなと思う。
そうか、今日はもう月曜日だった。
本当なら週末に泊まりに来るはずだったのを僕の都合で昨夜にしたんだ。
だから、淳美は会社に行く前に着替えるため、こんな時間に帰ったということ。
そういうやつなんだよな、と、薄暗い天井を見上げて考える。
いつも、自分の主張は言わない。
『……でも』のその先は出てこないんだ。僕が『ダメならいい』と言えばそれで通る。
だから一緒にいるようなもんだ。
今日は休みだけどなんとなく目が覚めてしまったし、とりあえず起きることにした。
秋も深まってきた11月。当たり前だけれど寒くて、上着をはおって暖房をつけた。

淳美と知り合ったのは半年前。
高校の頃の友達から、彼女の会社の同僚と合コンやるから来いよと言われて しぶしぶ出かけて行った。
他のメンバーが盛り上がる中、僕達だけが浮いていて、
結局誰かとくっつくこともなく、僕が淳美を送っていく流れになった。
まあ、そのままサヨウナラでも良かったんだけど、一応電話する約束はして、 なんとなく、今まで一緒にいる。
大学を1年で中退して、美大を受け直すつもりがそのままフラフラとバイトしている僕と違って、
淳美は高校を出てから2年OLをやっている。
この部屋から車なら30分くらいのところに両親と住んでいて、しごくまともなお嬢さんだ。
で、僕はと言えば、大学をやめる時に実家に戻るように言われたけれど、
ごちゃごちゃ言われるのがイヤで、一人でこのワンルームに住んでいる。
淳美のことを考える時はいつも、時間の問題だよな、という結論になる。
普通に会社勤めをして、ごくまともな親に育てられている淳美と、
バイトを2つかけもちしてなんとか自活しているものの、将来の見通しなんてない自分。
どうせそのうち終わるものなら、深く考えても仕方ない。

何か飲もうかと思って台所を見ると、小さいナベにスープが入っていた。まだ暖かい。
こんなもの作ってたなんて、まるで気がつかなかった。何時に起きたんだろう。
しばらくぼんやりとそのナベを眺めて、結局そのまま流しに捨てた。
たとえ今この場に淳美がいても、『食べたくなかった?ごめんね』となるのは分かっている。
なんだか馬鹿馬鹿しくなって、部屋の床にひっくり返った。
――こつ、こつ、という音が聞こえた。
1階だから、窓の外はすぐ道だ。だからと言って、こんな時間に窓をたたく馬鹿が――いた。
くもりガラスの向こう側にぼんやり見えるのは、どう見ても女の影だった。
淳美にしては背が低い。白っぽい服をきて、ガラスを叩くたびに長い髪がゆれている。
とりあえず、いきなり殺されるとかいうこともないだろうし、それならそれでいいか。
かなりどうでもいいような気分で、僕は窓を開けた。



一言で言って、可愛い娘だった。
きっと僕は、口をポカンと開けて見惚れてたんだろう。その娘が小さく肩をすくめて笑ったので、我に返った。
白い小さな顔。背中まであるまっすぐな髪。背はあまり高くない。
ワンピースから華奢な白い手足がすらっと伸びている。
と、ここまで考えて気がついた。この寒いのに、この娘は半袖のワンピースだ。
「やっぱり、起きてたね」
初めて聞く声なのに、どこかで聞いたような気がするというのは、かなり都合のいい解釈だろう。
高すぎず低すぎず、声もキレイなんだな、とぼんやり思う。
「彼女がさっき帰ったから。きっと起きてると思ったのよね。そういう人だもん、あなた」
「――は?」
俺を知ってるのか? 彼女って、淳美のことも知ってるってのか? あいつの友達?
そういう人って、どういうことだよ。で、なんでこんなとこにいるんだ? お前、誰なんだ?
次々と疑問ばかりが浮かんだが、声にならない。
「とりあえず、中に入れてくれないかなぁ」
小首をかしげて言われたら、断れるわけもない。聞きたいことはたくさんあるし、断る理由もない。
「――ああ、寒いよな。今玄関開けるから」
そして、僕の時間の流れは変わることになる。

「ええと……お茶でいい? コーヒー? それとも腹減ってる?」
「あ、何もいらないわ。そういうものは必要ないから」
変わった言い方をする娘だな。そりゃ、こんな時間にいきなりやってくるんだから、変わってるのは当たり前か。
そのまま部屋にいれる僕もどうかしてるけど、と苦笑がもれる。
「あなたはどうぞ。食べないと生きていけないんでしょ?」
なんだかものすごいことを言われたような気がするが、今は別に食べたくない。
「いや、あとでいい。――で、君はいったい……」
「あたし? アツミ」
「――は?」
馬鹿のひとつ覚え。そんな単語が浮かんできたが、他にどう言えばいいんだ。
「アツミです。ナカタ、アツミ」
中田淳美。さっきまでこの部屋にいたのもそうだ。
「……あいつに何か言われて来たの?」
「あらぁ、そう来るかー。もう、何も分かってないのね。あの淳美さんが、
他人にあなたのことグチると思う? 友達はいっぱいいるけど、そんな深い付き合いしてると思う?」
ここで初めて僕は、心臓が冷たくなった。
この寒い中半袖でいても、淳美の名前を知っていても、どこかに逃げ場がある気がしていたが、
どうしてこんなセリフが出てくるんだ。
あいつの友達というのが一番ありそうなセンだけど、この娘はどうも淳美の友達にいそうにないタイプだ。
しかも彼女の言うように、僕のことや自分の考えてることを友達に話すほうじゃない。
いやでも、それはあくまで僕の主観だ。
意外となんでも話すような友達なのかも知れない。
「だからね、あたしはアツミなんだってば。――まあ、おいおい説明するわ。
今言っとかないとならないのは、淳美さんのあなたを好きな部分が全部あたしだってこと。
だから、これからこの部屋に来るのはあたしだけになるわね。
――あなたが、他に 彼女を作らない限りは。でも、それはまずないだろうし」
「……言ってることが分からないんだけど」
「そりゃあ、そうよねぇ。でも、淳美さんが来なくなって、あなた困る?
他に誰か新しい彼女を作る気、ある?」
そう聞かれると、困らないし、作る気もない、としか言えない。
「実際、見た目も中身も、あなたの好みなのはあたしのほうだと思うけど?」
……すごいことを言うな。でも、中身なんてのは分からないけど、見た目で言えば確かにそうかも知れない。
まずい、どんどん丸め込まれてる気がする。
「信じられないなら、淳美さんに会って確かめてみるといいわ。そうしたら分かるから。――イヤでもね」
「……あんた、どこかおかしいんじゃないのか?」
「さあ、どうかしら。少なくともあなたの望むとおりになるはずよ」
僕が望むこと。そんなもの、どこかに置いてきたんじゃなかったか。
「思い出させてあげるわ――春明」
ハルアキ。今、僕をそう呼ぶのは淳美しかいない。
似ても似つかないアツミの笑顔が、淳美の顔に重なって見えた気がした。



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