long4-1

『ひらり』

・・・と目の前に一枚、舞い降りた。
視界を斜め上から遮ったそれが何だったのか、あまりに一瞬すぎて分からないけど、分からないのに何故か花弁だと、そう、思って。何の花弁だったのか、追いかけて向けた視線は追いかけた相手を捉えられず、追いかけているうちにいなくなってしまった興味に、追い続けることを放棄する。
でも、それはほんの数秒の出来事だった。そう、たった数秒、視線を逸らしただけだったのに。

気がつけば、たった独りで佇んでいた。

「あれ?」小さな間の抜けた声は、俺自身のもの。他には車の走行音も、人の声も聞こえずに、見渡す限り誰もいない。確かに元々人通りが少ない道ではあるけれど、視界の端に、常に一人か二人は人の姿が映っていたように思うのに・・・今は、誰もいない。誰もいないけど、いつもの道だった。いつもの、家路だった。人通りが少ないのに広い歩道、その歩道に敷き詰められている、色鮮やかな煉瓦みたいな石。その石が描く幾何学的な模様。そして歩道に沿って並ぶ、車なんて滅多に通らないのに、歩道と同じく広い車道。車道を造る、黒光りする滑らかなアスファルト。歩道を挟んで反対側には、客なんか滅多に見かけない駄菓子屋や、酒屋、それに民家が並ぶ。
いつも通り、だった。毎朝通って中学校へ行って、毎夕通って家に帰る、道。尤も、そうやって規則正しくこの道を毎朝毎夕通ったのは、まだ七回程度しかない。だって、中学校に入学してからまだ七日目。だから慣れたと自慢できるほどの回数ではないけど・・・でも大胆な間違いをするほどじゃない。はず。
「なんか、一本、道逸れたかな?」自信はある。逸れてない。ただ、一応もしもということもあるから可能性は口にしてみるけど、勿論、誰も答えない。誰も答えないけど、間違ってなんかない。
歩道と、歩道に沿った車道、寂れた店と民家。そして、歩道と車道の間に続く、街路樹。・・・が、ない。
「は?」
小さく零す、声。零さないと溜まってしまう空気を吐き出すのと同じ。でも気が抜けた空気の音に気づかされて改めて直視したそこには、いつも通りの土の道はあるものの、七日間、目にしていたはずの人工的に整えた木々は一本も存在していなかった。一本も、そう、ただの一本も。
でもその代わりに──人が、いた。人が、並んでいた。
誰もいないはずだったのに。誰もいないから、どうしたらいいのか分からなくて混乱していたのに。大体そこに人が立っているのは『いつも通り』じゃないのに。それでも、人がいた。人が、並んでいた。一列に、土の上に並んでいた。
混乱、混乱、困惑、混乱、そして、沈黙。
とうとう出せなくなった声。その代わり、視線は雄弁なほど釘付けに。逸らすことなんて出来ないで、見つめ続けるばかり。焦点が合わないのは、鮮やか過ぎてどこに絞るべきかが分からないからかもしれない。それほどに、並ぶ人々は艶やかだった。
見渡す限り、女の人ばかり。服装は統一性がなく、唯一の統一性を挙げるならば、どの人の服も暗色がなく、艶やかな色合いばかりだということ。まるで何かのパーティ会場みたいに鮮やかな色のドレスっぽい服とか和服とかを着て、男の俺が見ても分かるほどの万全な化粧と髪型。隙一つないっていうのはこのことかと思うし、完全武装、なんて単語が浮かぶけど、多分、間違ってはいない。
間違ってはいないだろうけど、なんでそんな武装集団がこんなところで整列しているのか。もしかして、彼女等がこの地域の他の人々を掃討作戦的な何かで何処かへ連れて行ってしまったのか? それなら俺もこれからどこかに連れて行かれるのだろうか? でもよくよく見てみたら、皆、テレビに出てきそうなくらいの美人ばっかりだけど、連れて行かれた先にも美人が沢山いるのだろうか?
色々、疑問が浮かぶ。俺の中の冷静な部分は、混乱している、と俺自身の状態を評価しているけど、評価されても混乱しているなら動けるわけがなく。立ち竦む、ただそれだけの俺。その、俺に・・・。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

「──やっと、来たわ」

何処にもない命、それなのに花弁はまた舞い落ちて、音にすらならない音に、遅いじゃない、という不服そうな声が重なった。並んでいる、綺麗な服の綺麗な化粧の綺麗な髪形の女の人達。そのうちの、一人。誰が、と思ったけど、思っている間に一歩、前に進み出た人がいて、あぁ、その人なんだ、と気づく。
前に出たその人は、それからまた一歩、更に一歩と近づく。近づき続ける。俺の方に、向かって。
綺麗な、女の人だった。あまり美人とかそうじゃないとかが良く分からないけど、そんな俺でも美人だって分かるくらいの美人。目が大きくて、睫毛がつけ睫毛かってくらい長くて、白目の部分が少なくて殆ど黒目。色が白くて、優しそうで、でも真っ黒な髪が纏められている所為で見える細い首筋とか、物凄く盛り上がってる上半身の一部とかは、テレビで見るグラビアアイドルの商品っぽい下品さがなくなった感じで、超色っぽい。着ているのが薄いピンクと白の着物だから、余計にそう感じて。
「メグム、よね?」と、その美人はすぐ目の前まで近づいて、柔らかそうなピンクの唇の両端を少しだけ上げて聞いてくる。丸い、柔らかい声。でも名前を聞かれただけで落ち着かなくなるくらい、なにか、色々なものが含まれている声。瞬き一つしない目はあまりに黒すぎて、俺自身が瞬き出来なくなる。
縫いつけられている。そんな気がした。柔らかさに包まれた、凄く細くて鋭い糸に。
伸びてきた両手は、見たこともないくらい真っ直ぐで細くて滑らかで、タレントみたいに完璧な形の爪は、剥がれそうなくらい薄くて、着物と同じ、薄いピンク色に染まっている。そしてその両手が、動けない俺の右手をそっと掴んで。爪の冷たい硬さが、少しだけ掌と甲に食い込む。
「ねぇ、そうよね?」食い込んだ爪の分だけ、もう一度答えを要求される。「・・・そう、です」要求されたら、答えないわけにはいかない。だって、凄い美人。しかも、和服美人。「木の芽、花の芽の芽って書いて、メグムです」なんて、聞かれてもいないのに漢字の説明までしてみて。
舞い上がっているのか、混乱しているのか・・・舞い上がっているから混乱しているのか。いまいち区別が出来ないけど、俺の話に何故か彼女は少しだけ目を見開いて、それから小さく頷いた。嬉しそうに微笑んで「知っているわ。良い、名前よね」そう、言って。
自分の名前は、あまり好きじゃない。なんとなく、女っぽい気がするから。でも褒められれば悪い気はしなくて、つい笑い返していた。なにがなんだか、分からないのに。

「私は、サクラ」

何がなんだか分からないのに、何がなんだか分からないまま、何となく深く追求する気にならなかった。周りにある全てが遠くて、自分の両足で踏みつけている地面すらその実感がなく、目の前で佇む和服美人も、その綺麗な指先も、触れる爪も、全部が遠い。遠すぎる。
静か過ぎる風景の中、気配のない人々の視線の中、遠すぎる全ての中、近いと実感出来るのは、気づけば視界の隅に映り込む、小さく薄く、軽やかな何かの気配だけ。映ったと感じた途端、追うことも出来ないくらいあっさりと消えていき、決して姿を見ることが叶わない。

ひらり、ひらり、ひらり、

──花弁。
追えないのに、捉えられないのに、それだけは分かる。何もかもが遠いのに、たったそれだけが驚くほど近いから。・・・でも、花は、何処に? 花は、花は、何処に? 何処から? 何処へ?
「サクラ、なの」
「サクラ?」
「そう、サクラ」
「サク、ラ・・・『桜』?」
「そうよ、その『桜』よ」
小さな笑い声が、漣のように周囲に満ちる。目の前の美人も笑っているけれど、その向こうの美人達も、皆が笑っているのが感じられた。声もなく、気配だけで笑っていると。笑われている、でも悪い気がしないのは、きっとその笑いが軽やかだから。悪意なんて重いものを一切含まず、薄く、軽く、けれど華やかに。
舞い落ちる、姿の見えない花弁のように。
そしてその花弁に手を引かれる。決して強い力ではないのに、逆らう意思なんて初めから存在しないかのように、当たり前に。引かれる先は向かうはずだった方向で、そもそも逆らう必要性もなかったのかもしれないけど。
「ずっと、貴方が来るのを待っていたのよ。ずっと、ずっと待っていたの」
「・・・俺を?」
「そうよ。貴方がここを通るのを、毎日見ていたわ。七つの間、ずっと見ていたの。見て、待っていたの」
「七つの間・・・七日間?」
「皆で、待っていたの。駄目かもしれないって思ったけれど、でも皆で呼べば来られるんじゃないかって思って。でも私が咲いている間に来られて、本当に良かったわ。あの子と私の時期は少し違うだけだから、それも心配だったし」
話が、全く見えない。見えないのは、話だけじゃないけど。
でも俺がどうしたらいいのか分からないでいるのに、その『桜』さんはどんどん歩いて行く。俺も、行かない理由が見つからなくて、ただついて行く。辿るのは、いつもの道。くすんだ色の民家、少しだけ欠けた塀に囲まれて、黒いアスファルトが続く。車道と歩道の間には、人工的に整えられた並木。・・・ただ、誰もいない。誰も、誰一人いない。俺だけがいる。俺の他は誰もいなくて・・・違う、彼女がいる。手を引く、美人が。美人たちだけがいる。他は誰もいない。あの家にも、この家にも。ただ、道と並んで続く土の道にも、あの家にも、この家にも、いる。
──見かけたことのない、いつのもの人々がいる。
誰、それ?・・・そんな問いが、嘘みたいに軽く浮かぶ。気を抜けば、浮かんだことすら分からなくなるくらい、軽く、軽く。でもその軽さの中に、否定と肯定が入り混じって、止める間もなく一つになる。初めから同じモノだったみたいに、一欠けらの違和感もなく。
「お願いがあるの」
一つになった否定でも肯定でもないモノから生まれた、彼女の声が聞こえた。耳の奥から涌き出るみたいな、声が。軽く、軽く、重力すら忘れそうな、彼女の足取りと同じくらい軽い声が。
「お願いが、あるの」
繰り返される。聞こえていると知っているのに、繰り返される。止まることなく進む足、首だけが違う動きを選んで、ゆっくりと振り向く。纏められてない横髪が、円を描くように流れる。そして彼女は『微笑む』。笑ったんじゃない、微笑んだんだ。
それは、魅せることを前提とした微笑み。分かるのに、目が逸らせない。それくらい綺麗で、何も考えられないくらい、頭の芯が揺れるくらい綺麗で。・・・だから、頷いた。ただ、頷いた。揺れている頭の芯に合わせるように、頷いた。
だって、それ以外に何が出来る?
聞こえる気がした、大勢の『笑い声』。馬鹿にされているわけじゃないと思うのに、恥かしい気がして訴える。頷く以外に出来ることがあるのか、と。また聞こえてきた笑い声は、まるで宥めるようで。今更、そう思った途端、気づいた。その笑い声の主達が、周りにいる見かけたことがない、いつもの人々のものだと。
人々──なのか?
「あのね」彼女は、ピアノの鍵盤の上で弾む指先に似た声で、呼びかける。
「あのね、私達の大切なお友達が、蹲っているの」
「・・・蹲ってる?」
「そう、蹲っているの。もうずっと、ずっとずっと、蹲ったままなの。私達にとっての『ずっと』だけど、でも、そのまま『ずっと』はいられないの。このままでは、終わってしまうわ」
「終わる?」それは、何か、とても哀しいモノを連想させる単語だった。もしかしたら、彼女の声や表情が理由なのかもしれないけど。「私はね・・・私達はね、あの子に、このまま終わってほしくないの」そう、彼女が『終わり』を拒んでいるから。
「だって、その為ではないの。その為に、在るわけではないの。でも・・・あの子は、私達の言葉を聞かないわ。自分は私達とは違うって、そればかり。確かに違うわ。でも、元々誰しも違うモノなのよ。それなのに自分が私達のようでないからって、諦めて、落ち込んで、蹲っているの。そんな必要、ないのよ。全然、ないの。ねぇ? そうは思わない?」
独白のようなそれが、唐突に向けられる。驚いて返事も出来なかったけど、驚きすぎて反射的に首だけは縦に振っていた。これは多分、日本人的な習性。でも、和服美人は和服なのにその日本人的な習性を全く理解していないようで、満足そうな笑みを零した後、また続けた。よく分からない、言葉を。
「そうよね、そう、そうなの。だから・・・貴方を、招いたの。あのね、励ましてあげて。あの子はあの子のままでいいんだって、そのままで十分なんだって、教えてあげて。私や、他の何かになる必要なんてないんだって。そう、伝えてあげて。伝えて、そして──」

誰よりも、愛でてあげて。

「それが、必要なの。ううん、そうじゃないわ、それだけが、必要なの。誰も愛でない、そう信じ込んでいるあの子に、唯一必要なことなの。あの子は、もうずっと・・・信じ込んでいるから。自分は誰にも愛でられないって。でも有り得ないわ、そんなこと。ねぇ? そうでしょう? そう思うでしょう? 確かに私や他とは趣きが違うかもしれない、色あいが違うかもしれない、印象が違うかもしれない・・・でもそれがなんだって言うの? 何も関係ないわ。美しさというものは、そんな些細なことに左右される弱い価値ではないのよ。ねぇ? 分かる?」
・・・分からなかった。でも分かっていることが前提かのような口振りだったから、その相手が美人すぎたから、正直に分からないとは言えなかっただけで、本当は全然分からなかった。語られる言葉は言葉という形すら取らず、意味を形成することもなくただ耳を通り過ぎ、呼び戻そうとしても戻ってくるものでもなく。
何も分からない。だから、何も言えない。それどころか、そもそも何も考えられないし、何を考えればいいのかが考えられない。だから、ただついて行った。どこまでも、ついて行った。どこまででも、ついて行った。何も理解することなく、見慣れない、慣れた道を──気がつけば、そこは見慣れすぎた場所だった。見慣れすぎた、自宅のちっぽけな門の前だった。開いたままの、門。躊躇せずに入り込む彼女に引かれて中に入り、ドアには向かわず左に逸れる。奇妙に静かな家の庭を横断。突き当たりの石の塀で、今度は右折。塀と家の間、大人が二人並んで歩けるか歩けないかくらいの隙間を、彼女に連れられて歩く。歩く。歩く。薄暗い、あまり通らない場所を。
・・・違う、通らなくなった場所だ。
ふと、思い出す。この場所が、通ったことがなかった場所なのではなく、かつては、もっと幼い頃は日課のように通っていた場所だったことを。そう、大人は訪れない、たった独りの遊び場所。思い出す、よくこの場所を駆け抜けた。家の脇、突き当りの塀まで・・・そう、そこまで行って、そして・・・。
浮かび上がる思い出を追うように、視線は前方へ向かった。前を歩く彼女を飛び越え、その先へ。続く石の塀、突き当たり、薄っすらと差し込む日の光。何処から入り込んでいるのか分からない光の下、思い出す、細く、頼りなく佇む、名も知らぬ存在。今もまた、その時と変わらず──在った、そう思った瞬間、胸の深い場所は正しいと呟き、冷静さを装う脳は違うと否定していた。見たと思う姿はないのに、ないと判断する直前、見かけた気もして。
判別がつかず、生まれる混乱。でも、視界には映っていない。あの、名も知らぬ木は。ただ、代わりに・・・代わり、に? 違う、代わりのわけはないけど、とにかく、その場所には、あの木の、場所には。

──小さな、小さな女の子が蹲っていた。