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はじめに
この小説のジャンルはハードボイルド・ミステリー、形式は一人称視点です。作品は現在のところ誠に申し訳ありませんが未完です。
ハードボイルドというジャンルが苦手な方、また 特に翻訳調の文体が苦手だという方は余り肌に合わないかもしれません。ご賢察をお願い致します。
(誤字脱字等も結構あります)
著者敬白

※Firefox・Opera等の方、申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





ブランク ・ トラック

   1

 わたしの探偵事務所オフィスのある東京都港区でも、月間最高気温の記録が更新された。そう気象台が告げた八月だった。
 この現象は恒例化しつつあるものだが、一方で可笑おかしなことが二つだけあった。
 一つは、閑古鳥の巣窟となったようなその探偵事務所にも人がやって来たことで、もう一つは彼がやけに身形みなりの良い酔っ払いだったということだ。 
 何を勘違いしたのか、初対面にも関わらずこの男は、タリスカーの酒瓶を抱えたまま転がり込んで来るなり、来客用の長椅子ソファで小一時間ほどむっつりと眠ったのだった。芝のように丁寧に刈られた短髪は、窓からそよぐ潮風にのんびりくすぐられ、生意気そうに上向いた鼻と、だらしなく開いた口元からは、いびきがこぼれ出ていた。プレスの利いた黒いチノクロスパンツを履いた長い足は、窮屈そうに折りたたまれている。それはまるで、わたしの存在を歯牙にもかけないだけでなく、拒絶さえしているようでもあった。
 彼が再び目を覚ましたのは、日没を迎える頃だった。
「変なところへ迷い込んじまったらしい……」
 沼から這い出るようにして、沈んだ体を持ち上げた男の第一声はそれだった。
 装いは全てタリスカーと同じように小奇麗なのだが、心の持ち様はそう上手くいかず、生憎周囲に気を配るほどの余裕を持ち合わせてはいないようである。それが若さのせいなのか、酔いのせいなのかは判断できかねた。
「ここがどこだか、できれば見ただけで察してほしい」と、わたしは淡い期待を込めて言った。
 燃え尽きた炭のように光の無い彼の瞳が持ち上がり、紅い西日に染められた事務所の中をそろそろと泳ぎはじめた。視線はわたしの座るデスクを越えて、生活臭が鼻につく洋服箪笥ワードロープ、来客用の硝子卓子ガラステーブル応接セット、夏は常に開け放しのヴェネチィアン・ブラインドと移動した。表情が胡散臭そうに歪んだ。
「さっぱりだ」と、彼が肩をすくめるのと、わたしが嘆息しながら夕刊を閉ざすのが同時だった。
「目的があってここへやって来た、というわけではなさそうだね」わたしは夕刊を丸めて、机を軽く叩いた。「しかも、ここがどこだか解からないと君は言う」
 これまでにもよく、謎の督促状が大量に送りつけられて来たり、戸籍上存在しない人物の身辺調査を依頼されたりといった嫌がらせはあったのだが、この手のものは記憶に無かった。
 彼はカラカラに渇いた喉で、しゃがれ声を搾り出した。「どこかのビルの一室か……。ちらかってるな。それに、酒の香りがする。――ここにいると、なんだか酒に浸かってるみたいな気分だ」
 意識はまだ、肉体とは別に事務所オフィスのどこかに浮遊しているようである。白子アルビノのように蒼白で脆弱な面相は、タリスカーでも抱えていなかったならばとても酔っているようには見えないのだが、呂律ろれつは明快とは言いがたい。そこに、真っ白なボタンダウンのシャツと黒いニットタイ、さらにむらのない短髪が調和し、アイヴィ・リーグ・スタイルの全身が、チェスの盤上のようにはっきりとした白黒縞模様ゼブラを描いている。だが、性格の程はどうなのであろうか。その表向きとは裏腹に、寝ぼけた仮面にはまぎれもない困惑の表情が塗られている。
「酒に浸かってるのは、君の胃袋の中だけの話じゃなのかい」わたしは投げやりに言った。「いい加減に目を覚ましたらどうだい」
「だめなんだ、全然わからない」言い訳がましく、男は付け足した。「それに、大体、俺は別に寝ていたわけじゃなくって……。道に迷っただけで……。それで休もうとして、いや、なにがなんだか、さっぱりだ……」
「それはこっちの台詞だよ。説明するから良く聞いてくれ。君はいきなりここへ千鳥足でやってきて、そこのソファへ横になった。今さっきまではオットセイみたいにいびきをかいて、起き上がると、ここが変なところだと言うんだ」
「ちょっと待ってくれ。俺はいま修羅場なんだ」
「とてもそうには見えないけどな。――もしかして吐きたいのかい、それならWCトイレでしてもらいたいものだね」
 否定の意思表示なのか頭に血を巡らせるためなのか、彼は大げさにかぶりを振った。それでようやく脳みそが微かに刺激され始めたらしい。この状況を心の中で手探りし、次第に表情には険しさが増していった。
「どうなんだい。気分がすぐれないのかい」私は訊いた。
「すぐれない事は確かだけど、それが酔いのせいじゃないことも確かだ。過去がないってのはこうも気分が悪いものなのか」
「大袈裟なことを言うんだね」
「あんたは、シニカルな男だって言われない?」
「毒を吐きたい気分ならWCでしてくれと言ったはずだけどな」
 青年の表情が、その毒を飲み干したように険しくなった。長椅子ソファの上で膝を抱え、にべも無い視線をわたしに向けている。
 彼は言った。「ここはどこなんだよ? まず、話はそこからにしようぜ」
「すまないが、事情を説明してもらいたいのはこっちなんだ」
「できそうにないんだって。自分がどこにいるのかさえ解らないんだから」
「みんなそうだよ。みんな自分がどこにいるのかなんて解からないんだ、どこに行くかも解かっちゃいない。納得できたら続きを話してくれないかい」
「あんた、やっぱりシニカルだな」と、彼はビニールタイルの床を指差した。「俺が言いたいのはこの場所がどこなのかってことだよ」
「たいしたところじゃないよ。依頼料は概ね一日三万円から。成功報酬は必要なし、ただし、経費を幾らか実費で頂く。客層は様々で、白金のセレブから政界の人間、それから君のような変わり者まで。――コテツ探偵事務所へようこそ」
「何を言ってる……?」
「そりゃ君のほうだよ。ちょいと水でも飲んで落ち着いたほうがよさそうだな」
 事務所にキッチンは無いが蛇口くらいはあった。しかし、わたしは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して洋盃グラスに注いだ。残念ながら蛇口はいくら捻っても錆すら出ない代物なのだ。もちろん部屋どころかビル全体には空調もない。放っておけば、湿気た夜気はいつまでも室内にわだかまっているだろうし、逆に言えばこの青年だって、いつまでもこんな陰気な場所に居座ってはいないだろうということだ。
 わたしは電灯のスイッチを入れて洋盃グラスを渡した。ついでに、デスクの上で蜘蛛の餌食みたいに、コードがぐるぐる巻きになった卓上扇風機のスイッチを入れた。精一杯涼しげに魅せようとオーシャンブルーに塗られたファンが病気がちに呻きはじめた。
「すまない」と、男は座ったままで洋盃グラスを受け取った。
「なかなか楽しそうだったぜ」と、わたしは言ってやった。
 青年はまた唇を尖らせて何か言いかけたが、自分の立場を思い直し、口をつぐんだ。その膨れっ面は、蛍光灯の明かりの下で居心地を悪そうにしている。自分に良くしてくれる人間に対して、いささか無礼に振舞った後悔の念からくるものであろうか、あるいは一種の酔っ払いに特有の慢性的なものなのであろうか。
「君は酔っ払いだが、野蛮な人間ってワケでもなさそうだ」と、わたしはデスクに座りなおした。「酔っ払いに関わるのはいつだって間違いだって有名な言葉があるがね、君はどこか品が良いな。暗い感じだが、ちゃんと目も付いてる。そこに表へ出しておいた看板は映らなかったのかい」
「いや……。言われてみれば見たような気がするな。だからここへ入ったのかもしれない。たしかにそうだったような気もしてきた……」
 水を咽喉に流し込みながら単発に言い、それから洋盃グラスを空にすると、硝子卓子ガラステーブルへ乗せた。底に溜まった水滴の表面張力によって、洋盃グラスはまるで彼から逃げ出そうとするように、卓子テーブルの上辺を滑っていく。
「そういえばそうだ。頼みがあるからここへ入ったんだ」彼は意気込むようにてのひらを擦り、水分を拭った。「あんた、確かに探偵シャマスの看板を背負しょってるなら、俺を助けられないかい?」
 光の無い虹彩が、興味深そうに揺れている。わたしも洋盃グラスと同じように逃げ出したくなった。
「妥当な線だよ」わたしは言った。「ここへ来るほとんどの人間が似たようなことを言うんだ。でも君の場合は少し違わないかい? 宿ホテルならビルを降りて左へ、二ブロックも行けば見つかるし、ここは海沿いだから、外に出ればタクシーもバスもすぐに拾えるはずだよ。ああ、それから、紹介料は別に必要ないから」
「そんなんじゃないんだって」
 依頼人は多少語気を荒めた。しかし、だからといって体格と同じようなか細い声調が厚みを増したわけでもなかった。
「どんなんじゃない?」わたしは言った。
「そんなワゴンセールみたいに、どこにでも投げ出されてる話題じゃないってことさ。俺の人生に関わる大問題トラブルなんでね」
「ははあ」
「なんだよその反応は?」
「別に」
「あんたは本の中の探偵と同じなのかい。興味が無い仕事はやりたくないってことか。それともただ俺を馬鹿にしたいのか」
「いや。人生に関わるような大問題を、こんなしがない探偵にね。そりゃ光栄だが、ついでに言うと滑稽でもあるかな」
 何が逆鱗に触れたのかは分からなかったが、突然、彼の語り口に熱がこもりはじめた。
「そりゃあ、俺自身だって、おかしなことだってのは十分良くわかってるんだぜ? それでも実を言うと、どうやら今の状況じゃあ、あんた以外に俺を救える人間がいない。要するにさぁ、お互い贅沢はいえない身分なんだから、協力し合おうってことじゃないの」
「仕事は他にもあるんだ。一緒にしてもらいたくないな」
 ちぇっ、と青年は舌を打った。
 この青年にはひどく不明瞭な部分が多い。問題トラブルに巻き込まれたと言うが、それとは別に何かしらの信念を感じ得る。体格とは正反対の勝気な語気のせいでもやが掛かっているのだが、その向こう側に見え隠れするものは、先ほどの後悔の念だけでは無さそうである。青年は、冷静さを取り戻しつつ、弁解するような口調で続けた。
「別にそんな言うほど大層なことじゃないんだけどさ。でも、この辺りには頼りにできる知り合いもいないし、どうしようか途方に暮れてたら、視界に探偵事務所の看板が飛び込んできた。これはチャンスだと思ったよ。困ってて、目の前に探偵がいるのに、頼まない手は無いんじゃないのかい」
「なるほどね。だったら探偵をやっていて、目の前に困っている人間がいるのに、助けない手もないのかもしれない」と、わたしは自分でも首を傾げながら、そんなことを口にしていた。
 青年の表情が晴れて、口元が不器用に歪んだ。笑うことを今更になって数年ぶりに思い出したような不慣れな笑顔だった。
「そういうことになったら、嬉しいね」彼は言った。
「まぁ、そういうことにしておこう」
「ニヒルに笑うんだな、あんた。シニカルだけど、根は良い人なんだよ」
「御人好しだとよく言われる」
 わたしはデスクの引き出しを開けてファイルを繰った。そこには過去に携わった事件の記録も含まれている。この稼業では、御人好しは要するに、馬鹿だと言われるのと同意義である。しかし、そうすることがわたしの稼業ビジネスだし、探偵には、そんなものしか売り物がないのだ。
「頼みってのは、宿探しじゃないんだろ?」わたしは言った。
「もちろんだ。まぁ根城がないのは本当だけど――中華街チャイナタウンに行けば知り合いがいるから」
「なるほど。そこまで行けばなんとかなるわけだ」
 わたしはを契約書を見つけ出してファイルを閉まった。
「ああ。本当はそこに行きたかったんだけど……。どうにも間違えたらしくてな。俺が行きたかった街ってのは、港が近くにあるところで、――何と言ったかな。昔、米海軍基地があって――街の名前を忘れちまったんだ。それでもうしょうがないから、成田空港からタクシーに乗って、“港”に行きたいって言ったんだよ。タクシーの運転手はこの付近で俺を下ろしてくれたわけだけど、でも中華街チャイナタウンなんてどこを探しても無いんだ。なにがなんだかだよ」
 青年はまた悄然と頭を振って見せた。わたしは彼の顔を覗き込んでみたが、にわかに鼻白んだだけで、冗談の様子は欠片もなかった。その時になって、はじめてこの男が日本人ではないことに気が付いた。しかも理解し難いことに、日本語がこれほど流暢りゅうちょうであるにもかかわらず横浜を知らない。
「“港”区だよ、ここは東京都の港区なんだ」と、わたしは正した。「残念だが横浜じゃない。さっきから場所ばかり聞くわけがわかったよ。君は日本人じゃないのだね?」
「そうだけど。それがどうした」
 男は反発するようにむくれた。だがその言葉は、三階下の並木道ブールヴァールから響いてくる車の音と同様に、何の意味も成さず、尻切れトンボに終わった。
「名前は?」
 わたしは契約書に記入事項を書き込みながら訊いた。
リャンだ。家の支えにはりってあるだろう? その梁って書いてリャンと読む。梁道一リャンダオイー、道が一つでダオイーだ。聖名クリスチャンネイムがアレクセイ。ロシア正教なもんでね。よく素晴らしい名前だって言われるが、みんな『カラマーゾフの兄弟』を思い出すんだろうな。あんたも自己紹介してくれよ」
 梁が右手を差し出した。わたしはペンを置き、その手を握り返した。冷たくすべすべしていた。
「コテツだ。聖名クリスチャンネイムは――スメルジャコフなんてどうだい。呼び方は好きなようにしてくれて構わない。私立探偵をやってる。結婚はしていないから子供もいない。友人はそんなに多いほうじゃない。名前は良く人から馬鹿にされる」
 こうじ果てていた彼の瞳に、哀れみの気配が浮かんだ。哀れみとは常に親密さを孕んでいるものである。
 彼は言った。「スメルジャコフが『カラマーゾフの兄弟』のことを言ってるんだったら随分地味な役回りを選んだな。でも実は冗談なんだ。俺はどこにも属さない、だからただの梁道一リャンダオイー。よろしくな、スルメ」
「オーケー、ミスター・ダオイー。スルメじゃない。スメルジャコフだ」わたしはなんだか損をしたような気分になった。「君の日本語の達者具合は良く理解できたよ。だからといって素晴らしいとも何とも思わないがね。続きを聞こうか」
「続きはないんだ、スメルジャコフ。今言った通りだ。俺は中華街チャイナタウンに行きたいってことだ。よろしく頼む」
 鉄砲玉のような真っ直ぐな言い草である。わたしは、その勢いに撃たれはしなかったものの、銃底で小突かれたような気分だった。鉄砲玉は軍需産業の代物だが、探偵稼業は平和産業である。その辺りの違いが出たのかもしれない。
「結構だ。これは依頼と見ていいんだね」わたしは念のために諒解りょうかいを得ようと試みた。
「もちろんだ」と、梁はまだ髭も生えない顎を引いた。「だが、そう見ると問題があるのも確かだけど」
「この稼業じゃ問題を気にしてたらやってられない。だが話だけでも聞いておこうか」
 梁は、どっちなんだいと言いたげな視線をわたしに投げかけたが、構わずに答えた。
「一つには、この仕事が終わったら俺に関わったことを全て忘れてもらわなくちゃ困る、ということ」
「あぁ、これまた随分大袈裟なことを言うね。そんなことは慣れっこなので構わないが。そのせいで料金がかさむ事も無い。それから二つ目には?」
「その料金が問題。金が無いってことなんだ」と、彼は自身ありげに空っぽの両腕を広げて見せた。「ワンコインだってないんだ」
「困ったな」わたしも両腕を広げて見せた。「まさかそこのソファの上に転がってるウイスキーが全財産ってわけかい? そんなわけは無いだろう。家は無いのかい」
「戻るための橋を自分で焼いちまったんだ。俺は何にもかも無くしちまってな」
 彼はそんなことを言うのにも胸を張って答えた。無鉄砲と言うよりも、体裁の端整さと精神年齢の低さがちぐはぐなのだ。だから余計に空威張りが際立って伺えるのである。
「たまに君に似たような家出少年や少女がやってくる」わたしは言った。「なかなかやっかいなもんだがね、でも、彼らはそのぶん何も失くさずに済むのが利点だよ」
「それ、慰めてんのかい? 別に俺は悲しくも寂しくもないし問題もない。肝心の金はこれから手に入れんのさ。人生を賭けたんだから、見返りは期待できる。つまり報酬はいくらだって期待できるってことだぜ」
 人生を賭けるにしては若すぎる年齢である、だが人は常に人生を賭けるタイミングを逃し続けているのかもしれない、などということをわたしは思った。
「犯罪者と関わりがありそうな物言いだが?」
「俺は、悪いがそんなもんに引っかかる器じゃない。どうせ犯罪したって、法律も俺には気付かずに素通りさ」
「君は、素性も含めて良く解らないな。でも、探偵事務所になんぞやってくるのはそんなのばっかりだ。とりあえず名刺を渡そう。自宅兼事務所だ。報酬は気が向いたら書留で送ってくれればいい。本当に気が向いたらで構わない」
 わたしは紙入れから一枚、仕事用の名刺を取り出した。事務所の住所、電話番号、携帯電話の番号も印刷してある。脇にピンカートン探偵社をライヴァル視して、刀をあしらったエンブレムを刻んでみたが、成功したデザインとは間違っても言えない代物だった。梁はそれをひったくって言った。
「名刺なんて貰ったのははじめてだな。報酬は期待しててくれよ。すげえスコアを叩き出してみせるからさ」
「そうさせてもらうよ」と、皮肉を込めて言ったつもりであったが、梁には通じなかった。「もう出発したいかい?」
 表を眺めると、もうすっかり日は落ちていた。海岸通りには、椰子の木と交互に寄りそうように並んだ街頭の煌きが帯状に伸び、吸い込まれそうな夜の海をネイルアートのように縁取り飾っていた。
「早いほうがいい」と、梁は海の遥か向こう側を見つめるように言った。「決心が揺るがないうちに。もう深酒なんてヘマはやりたくないし」
「わたしの知ったことじゃないがな」
 梁が、回り続けていた扇風機のスイッチを切った。「はやく行こうぜ。よろしく頼む。コテツ」
 わたし達は、手続き上必要な書類に最低限の記入を済ませると、揃い踏みで事務所を後にした。
 彼の不得要領な説明に満足したわけではなかったが、特に不満というわけでもなかった。大した仕事ではない。迷い猫一匹を中華街に届けるだけである。陽気と気分さえ良ければ、どんな人間だって斟酌しんしゃくしてやりたくなるような無心なのだ。

 わたしの旧型のマークⅡは、芝浦から環状一号羽田線に乗り、左手に埠頭郡を眺めて走った。芝浦埠頭・品川埠頭・レインボーブリッジ・お台場・大井競馬場のネオンの瞬きも、わたしにとって日常でありながら、助手席に居る一人の外国人の存在によって、簡単に視界から消えてゆくように感じられた。横羽線に入り、暫く、一面オレンジ色のナトリウム灯に着色された道路を走った。眠気を誘ったが、車の台数は少なく、心地よく流れた。
 車内でたいした会話もなかった。しかし、横浜公園入り口でハイウェイを自動車が降り、横浜スタジアム前の信号で待ち時間になると、梁が一つだけ質問をした。
「探偵ってのはさ、どんな仕事なんだい?」
「砂漠に水を撒くような仕事だよ」と、わたしは答えた。「見知らぬ人間が問題トラブルを抱えてやって来て、愚痴をこぼし、満足し、帰ってゆく。だが世の中から問題トラブルが消えることは無い。ついでに言うと、こんなことを誰に言ってもしょうがないんだけどね」
「俺もいつか、そうやって自分のために働いてみたいな――」
 後ろでクラクションが鳴った。わたしは車をスタートさせた。

 中華街に着くと、人ごみは這うように身じろぎしていた。一日で最もむさ苦しい時間帯であろう。この群集は、軍隊蟻のように食料、土地、エネルギー、果てには情報までも消費しきっていく流行そのものである。
 わたしは前田橋の交差点近くにそびえる朱雀門の手前に自動車を横付けにして梁を降ろした。星の無いビロードのような夜空をバックに、牌楼パイロウがハイウェイと商店街の煌きで絢爛けんらんに浮き上がっている。
「それじゃあ、ありがとう」と、アスファルトに立った彼は自動車のルーフに手を掛けて首だけを車内に入れた。「成功した暁には大量の報酬だ、きっと百万ドルはいくぜ。それで本当のおさらば。俺のことは忘れてくれ」
「何をしようとしているんだい?」
 口が開き、科白が思わずこぼれ出て、わたしは後悔した。
「娯楽だよ」と、彼はしたり顔で言った。「大貧民ってトランプゲームを知っているだろ。同じ数字を四つ揃えると力関係が逆転して革命が起きるんだ。俺は現実にそいつをやってみせたいのさ。でもこれ以上は言えない。余計者エキストラが多すぎるようだ」
 彼は辺りに目を配った。歩行者信号が赤に変わり、自動車が次々にわたし達を追い越して行った。わたしはそのテールエンドを見送りながら、あてもなく笑って見せた。
「俺は上海シャンハイ郊外のスラムと農村で育ったんだ」と、しかし彼は続けた。「革命を起こすのに必要なカードは残り一枚。だが、まだアガリには程遠い。野球で言うならスリー・イニング程度だよ。大変なのはこれからだ」
「たまにいるんだよ」わたしは言った。「身の上話をしただけで満足して帰っていくようなお客もね」
「俺も似たようなものさ。さようなら、コテツ・スメルシャコフ。それから、もし報酬が暫くたっても届かなかった時は、ここから通りに入って五つ目の路地裏にある酒場バーの戸を叩いてくれないか。何かお礼ができるはずだ」
「かまわないよ」
 大袈裟な別れだった。余計者エキストラから眺めたわたし達の姿は、植民地コロニー独立を認めた記念碑モニュメントのように見えたに違いない。
 梁が背を向けると、その痩せた背中は、南門通りに溢れる中華まんの湯気と、雑踏の熱気と、夜霧の孤独の中に溶けていった。最後に梁が見えたとき、誰かが彼の肩に手を掛けるのが見えた。それが男だったということしか、わたしには分からなかった。
 歩行者用信号機のメロディが流れ始めた。わたしは再びメロディが鳴り止むのを待って、イグニッション・キーを回した。すると、まるでそれが合図だったかのように、雨がフロントガラスを叩き始めた。夕立ではない季節外れの雨雲が、低い空に落ちていた。
 やがてフロントガラスの向こう側の景色が滲んだ青に染まると、わたしは厭な夢から逃れるようにして、アクセルを踏む足に力を入れた。

 こうして今年の夏、可笑しなことは三つに増えたわけだった。しかし、わたしはまだこの時、問題トラブルが坂道を転げる泥団子式に増えていくことを、撞球ビリヤードのキューに着いたチョークの粉ほどにも予期していなかった。
 事務所に帰り、客の忘れていった煙草に火を点けずに咥えてみたが、手持ち無沙汰な気分は変わらなかった。
 なぜなら、わたしは普段から煙草を吸わなかったからかもしれない。
 夕飯に、値段の安そうな中華シナ料理屋を選んで出前を取った。二十分後に酢豚セットを前にしたわたしは、当たり番号をチェックし忘れた宝くじナンバーズを大量に抱え込んだような気分だった。
 しかし、わたしは賭け事もやらない。
 熱いコーヒーを飲み、出前のサラダ皿に付いてきた檸檬れもんかじり、ベッドへ入ると、ようやくとりとめも無い夢から覚めて、現実へ帰ってこれたような気がした。しかし、結局はまたすぐに眠りに落ちて夢を見た。だがその夢は、後にどんなものであったかすらも思い出せなかった。

 次の日、まだ季節外れの雨は続いていた。
 わたしが朝刊を眺めていると、旧い知り合いの神奈川県警の警官である路辺ろべという男から、事務所オフィスに一本の電話が掛かってきた。彼は御静聴とばかりに一つ咽喉をからげると言った。
「私だ、路辺ろべだがね。今朝、中華街チャイナタウンでおまえさんの名刺を持った中国人の男の遺体が見つかったよ」
「ちょっと待ってくれ」
 わたしは受話器を放り出して、長椅子ソファに転がされていたタリスカーの栓を抜いた。
 この夏の可笑しな出来事は、まだ増えそうな気配だった。

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