世界の果て、誰も訪れない、誰も来ることの出来ない、そんな秘境。黄昏れていく夕日に紅いドレスは映え、風に裾がなびかれ、可憐ですらある。
 ドレスを着ていたのはまるで人形のように整った顔立ちの少女。赤い夕焼けが少女の頬を赤らめる。だが、それはあくまで仮初めのもの。いずれ太陽が沈めばそれすらも消えてしまい、少女には何も残らなくなる。
 まだ幼さを残した少女の隣には黒いコートに身を包んだ長身痩躯の男。ただ少女の後ろに立ち、少女を守るように、少女の側にいる。
 少女は男に向け、滅多に見せない笑みを浮かべる。だが、男は少女に向けて微笑みを返すことは決してない。そのことに少女は一抹の寂しさを覚え、小さな笑みさえも消え失せてしまう。
 男が消えてしまうのではないかと底知れない不安を覚えた少女は、男にぎゅっとしがみつく。男の体温が、暖かさが、じんわりと広がっていく。体がふわりと浮かぶような心地よさと同時に、何とも言えない空虚さが少女の胸を走る。
 それでも……。それでもいい……
 小さな声で呟いた言葉は誰にも届くことはない。
 先程まで黄昏れていた太陽も地に落ち、辺りを黒くて暗い闇が覆い始める。
 おやすみ、と小さく少女は呟く。男の中で、男のコートに包まれて、少女は夢の世界へと誘われる。
 今日も、これまでも、これからも同じ、2人だけの、そして1人だけの日々が続くならば、せめて夢の中だけの世界を……。
 少女の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。





紅の姫君と黒の従者





 少女はまだ田園風景が色濃く残る小さな国のとある城で生まれた。城主で一帯を治めていたのが少女の父だった。少女は俗に言う姫君であった。
 内政や隣国のこともあり忙しいはずなのに少女にかまってくれる父を少女は大好きだった。たくましく強い父とは対照的に母はきれいで優しかった。いつかこんな女性になりたい、幼心にもそう思い、少女は母を尊敬していた。
 そんな両親に、皆少し変わっているがやさしかった父の部下。皆にかわいがられ、愛されながら、少女はすくすくと育っていった。
 だが、そんな生活も長くは続かなかった。元々体の弱かった母は少女の弟を身ごもると体調を崩してしまった。
 お腹の中の子供が育つごとに母の顔からは生気がなくなっていった。弟を産むと同時に母は亡くなってしまう。さらに一年もしないうちに、それまで順調に育っていた少女の弟も流行病を煩い、懸命の治療の甲斐もなく、この世を去ってしまった。
 短い間に愛する妻と息子を亡くした父は、ふさぎ込むようになり、やがて重い病にかかってしまった。父が病に伏せるようになると、少女を取り巻く環境は徐々に悪くなっていった。
 少女の国を疎く思っていた隣国の王たちが次々に様々な圧力や攻撃を仕掛けてくるようになった。元々、優秀な部下の多い少女の国は、隣国の攻撃を防ぎながら耐えていた。中々成果が上がらないことにいらだった隣国の王達はさらに激化し、中には少人数で城に侵入し、父の首を取ろうとする者すらいた。
 何度も刺客を倒し、退かせた父は、黒い甲冑を身にまとった男を倒した後、糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。甲冑の男が正面から堂々と入り、父のところまで来た男のことを褒めた直後のことだった。
 重い病の最中、幾度も刺客と戦っていた父の体はぼろぼろで、病は父の体の中を手の付けられないほど蝕んでいた。
 助からない。そう悟った父は一番信頼している部下に、少女のことを頼み、国のこれからを憂いた。
 程なくして、父もこの世を去った。偉大な指導者を失った国には混乱が生じた。混乱の末、少女は国の主と祭り上げられる。しかし実際は部下達の傀儡。少女は玉座に座るただの人形。
 父に後を託された部下は混乱の最中に少女の擁護派の筆頭として、政敵の策略に嵌り、失脚させられ、城から追放させられた。
 後見人もなく一人残された少女はいつしか心を閉ざすようになり、ブラッドアイスプリンセス――血のように赤いドレスを身にまとった氷の姫君と呼ばれるようになった。謁見の使者が訪れても、最低限以上のことはしない。一人で過ごすことが多く、笑顔は見せない。まさに氷のように彼女の心は凍てついていたのだと人々は噂し合った。
 国も落ち着きはじめた頃、ある噂が流れはじめた。
 ――姫君が帝国の王子に嫁ぐ話が持ち上がっている――
 帝国は少女の国から少し遠くにある強大な国で、少女の父の――つまり、先代の王の遠縁に当たる。そして、帝国の皇帝の息子は適齢期。ある意味、噂が生じるのは当然と言えるだろう。
 これに一番反応したのが、帝国の勢力拡大を恐れた隣国の王達だった。帝国の勢力が自分の国に影響を及ぼすことを恐れ、先代の王のように少女を暗殺するようになったのだ。
 ただ暗殺の多くは未然に防がれ、少女の身に危険が及ぶことはなかった。一度だけ、暗殺者が少女のいる玉座に辿りつついたことがあった。自分に刃を向ける暗殺者に対して少女は普段は全く浮かべない笑みを浮かべて、ふっくらとした唇を開き、こう言い放った。
「私を早く殺してくれるんじゃないの?」
 暗殺は側にいた者の手によって防がれはしたが、これは大きな波紋だった。権力を握っていた者達は少女をどうするか、噂のように帝国に嫁がせるか、殺すかを秘密裏に議論しはじめていたのだった。





 そんなある日、少女の城に一人の男がやってきた。男は旅の戦士で是非とも少女と会いたいと懇願したのだという。もちろん、どこの馬の骨ともわからない者を城に入れるわけにはいかず、男はとりつく島もなく、追い返されたのだ。
 だが、そのことが耳に入ると、少女は珍しく、通せ、と短く呟いた。傀儡であっても一国の主、おいそれと逆らえるものではない。少女の計らいで男は少女と接見することを許された。
 謁見の間にたどり着いた男を見て、少女は強烈な既視感を感じた。似ている。そう直感的に感じたのだ。誰か、と言われればわからないのだが、少女には確信があった。
 話してみたい。父親が死んで以来、久しく抱いていなかった感情を少女は抱いた。側の者に二人で話がしたいと言って、上層部すらも排除した少女は男を側に呼び寄せた。
「どこかで会ったことがあるかしら?」
 少女はこう切り出した。男は黒いコートの裾を整えながら、いいえと笑みを浮かべて否定した。
「ですが、私の父は貴女とお会いされたことがあると思います」
 男は穏やかな笑みを浮かべたまま、続けた。少女はその言葉に、はっとなった。そして納得したように頷いた。
「勇者様ですね」
 からかうように笑みを浮かべた少女に、よしてくださいとやんわり引き留める男。二人は初対面とは思えないほど、打ち解けていた。
「私は、魔王と相打ちして死んだ勇者の息子としてもてはやされてきました。ですが、貴女の父上の計らいで放してくださった部下から事の全容は全て聞いていました」
 今まで笑みを浮かべていた男の表情がふと真剣なものに変わる。愁いを帯びたその黒い瞳に少女は吸い込まれるような感覚に襲われた。
「一度、貴女とお会いして、確かめてみたかった。ここがどんなところなのか。貴女が、そして貴女の父上がどんな方だったのかを」
 男は少女の手を取りながら呟いた。少女は男の手を拒むことなく、男を見つめて訊ねた。
「実際は、どうだった?」
 いたずらっぽく年相応の少女らしい表情を浮かべて訊ねる言葉には、かすかに熱が籠もっていた。
「希望を見いだせそうです」
 男は先程までの穏やかな笑みを再び浮かべながら、呟いた。





 男は客人として丁重にもてなされることになった。上層部は反対したが、少女の思わぬ主張に苦しむことになっていた。
 男を暗殺しようにも、かなりの実力者らしく手を出すことも出来ない。かといって、少女を暗殺することも極力避けたい。板挟みの状態が続いていたのだ。
 男が滞在してちょうど一週間が過ぎた頃だ。再び二人で話がしたいと求めた少女は、しぶる上層部を何とか説得することに成功した。ただ密かに聞き耳を立てる者がいることに男は気づいていた。
 用を足しに行くと嘘をつき、間者を捉え、気絶させる。すぐに男は戻ると穏やかな笑みを浮かべ、少女に話しかけた。
 しばらく続く談笑の後、不意に少女の表情が歪んだ。困惑した表情を浮かべながらも、男はそっと少女の肩を優しく抱いた。
「どうかなさったんですか?」
 ぐずりと鼻をすする音が聞こえる。男は、ぽんぽんと少女の肩を優しく叩いた。少女が自ら抱きついてきた。
 その体の華奢なこと、強く抱きしめると体が折れてしまうのではないかと思えるほどだった。
「このまま行けば、私は殺される。私が死ねば、帝国がこの国を支配するだろう」
 嗚咽を抑えながら、抑えきれないその姿はあまりにも哀れで辛く見えた。男はぐっと力を入れ、抱きしめる力を強める。
「私を、この国を助けて欲しい……」
 絞るように出した声は弱々しい。筋違いなのは少女が一番わかっている。男にそれをする義務も必要も一切ないし、彼にとってのリスクも大きいのだから。
「いいでしょう」
 男は耳元でそっと優しく語りかける。嗚咽の止まない少女の背中をゆっくりとさすりながら、男は目を閉じた。
「人間だとかは関係ないです。貴女のために、戦いましょう」
「ありがとう……」
 少女がそっと耳元で囁いた。涙声の少女の頭をそっと撫でながら、男は再び目を閉じた。





 計画は男が帰る予定の日に行われるパーティーに決行される。明日の予定だ。男はあてがわれた部屋の窓からそっと外を眺めていた。
 月が綺麗だ。窓から見えるまん丸な月は妙に高ぶっていた精神を落ち着かせる。男は伸びをして、ふぅっと息を吐く。
 知らぬ間に緊張していることに気がついて、男はくっと含みを持たせながらも苦笑した。
 こんこんっとふとノックする音が男の耳に入る。起き上がった男は一応、警戒しながら、扉へと近づく。
 ガチャリと扉が音を立てながら開く。扉の影から華奢な影が濃く見える。一呼吸置いてぼふっと男の体に柔らかい衝撃が伝わる。
「どうしたんですか?」
 抱きついてきたのは少女だった。か細いその体を抱きしめながら、男は訊ねた。
「怖い……。怖い……」
 少女の口から漏れたのは恐怖の感情。やらなければならないことの大きさ、失敗したときの恐怖。それに耐えきれるほど少女は成熟していなかった。いや、成熟させられなかった。
 男は顔にこそ出さなかったが、戸惑った。この分では計画は失敗してしまう。迷いがあるならしない方が良い。
 ぎゅっと少女を抱きしめ直し、男は窓を見る。月明かりが神々しく少女を照らしていた。
「怖い…………。助けて…………」
 少女のか細い声はかすかに熱を帯びていた。男は少女から体を離すと、いつもの穏やかな笑みを浮かべて
「私は、貴女を守ります。魔族だとか人間だとか関係ありません。これからもずっと貴女の味方です」
 少女に手を差し出した。少女はすがるようにその手をつかみ取った。
 無言で頷くと、男は少女を担ぎ上げ、窓を開ける。冷たく澄みきった夜気が二人の体に染み渡る。少女が男を見上げる。男が少女を見つめる。お互いに頷きあうと、男は窓から身を乗り出した。
 冷たい空気を切り裂くように窓から飛び降りる。男は苦もなく、城の中庭に着地すると少女を抱えたまま、駆けだした。
 夜気を切り裂き、城の敷地か抜け出そうとする男に城の警備の者達がいち早く気づき、迫ってくる。
「邪魔をするな!」
 裂帛の気迫と共に片手で剣を操り、次々と迫る者を男は打ちのめしながら先へと進む。
 城と庶民の住む町を隔てる橋に差し掛かったとき、男はぴたりと足を止めた。そして先を一瞥して、少女をゆっくりと降ろす。視線は橋の先にある集団に向けたまま、男は抜いたままの剣の切っ先を一人の恰幅の良い男に向ける。
 無言のまま、男は少女の手を掴む。そして、既に異形の姿に変わりはじめた者達に躊躇することなく男は剣を振るうべく駆け出す。異形に対して、少女の手を引きながら男は巧みに剣を振るい、少女には指一本触れさせなかった。
 後に残ったのは死屍累々と積み上げられた小高い山。その上に立つ二人は満ちた月の光を受けて、血に染まっていた。
 少女の白かったドレスは血で真っ赤に染まっていた。その隣に立つ黒いコートの男の顔は血に濡れていながらも、優しく微笑んでいた。





 その後、瞬く間に少女と男の噂は、血に染まった赤いドレスに身を包んだ紅の姫君と黒いコートに身を包んだ勇者の裏切り者、黒の従者として世間中に広まった。
 一国を壊滅的に追い込んだ二人の存在は世間を震い上がらせ、帝国を中心とした各国も二人を危険分子として刺客を送るようになった。
 二人だけの逃亡。数々の刺客を送られ、男は傷つき、それでもなお戦い続けた。
 そんな折、男は少女を守りながら、凶刃に倒れた。優しい笑顔を浮かべながらも男にはもう戦う力は残されていなかった。そして少女には彼が心で泣いているのがわかった。彼を倒したのは、女だった。屈強な戦士でも魔族でもない、普通の人間の女。だが、それでも唯一普通の女とは違うことがあった。それは彼がかつて愛していた女だということだった。
 決して少女が踏み込めない領域が男にはあった。その部分が、男を追い詰めた。少女は涙した。しかしそれで何も変わることは決してない。
 息絶え絶えの男は気丈にも笑顔を少女に向け続ける。そして持てる力を振り絞り、少女の体を抱きしめる。男の流した血は紅の姫君のドレスを更に赤く染め、最後のぬくもりを伝えていた。
 少女に男は最後に、こう言った。
 ――大丈夫、ずっと側にいる……
 少女を抱きしめながら、男は徐々にぬくもりを失っていった。男を失った悲しみから少女は大きな悲しみの雨を降らした。涙でずぶ濡れになりながら少女はふとあることを思い出した。
 禁呪。
 それは禁じられた秘術。大きな代償を術者に要求する代わりに、絶大なる効果を示すもの。
 少女は決して染めてはならないものに手を出し、男を生き返らせようとした。幸い、彼女は魔族。見た目は普通の人間でも、力は人を凌駕する。
 10年という歳月が過ぎた。禁呪をついに成功させた少女は男を動かすことに成功した。
 しかし、それはあまりにも残酷な結果を少女にもたらした。
 男は少女に笑いかけず、ただ動く人形のように側にいるだけ。抱きしめれば普通の人のように暖かいが、決して自ら少女を抱きしめることはしない。それでもいい、少女はそう思っていた。
 だが、時はどんどん過ぎるごとに少女の寂しさは募っていく。少女もまた壊れてかけていた。
 禁呪の副作用はあまりにも残酷だった。決して死ぬことが出来ない。
 何をしても、例え誰かに殺されても、少女は生きながらえる。
 相反する業を抱え、少女は――紅の姫君は黒の従者と世界の果てで生き続ける。だからせめて彼の胸の中で眠るときだけは幸せな夢を。
 残酷な紅の姫君と黒の従者の物語はここで終わる。今日もまた幼き少女は夢を見る。

fin

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